2012年03月01日

幸せの定義・9

〜「忙しい」という幸せ〜


久しぶりにブログを書きます。
「ずっと書きたいことは頭にあったのに……」と出だしの文章を考えながら、ふと気になることが浮かびました。

自分が忙しいと思わせることを他人にいうのは、美徳ではないという、いわゆるビジネスマナーがあったような……恥ずかしながら、うっすらした記憶を辿り、自分がそれについてあまりつきつめたことがなかったので、調べてみました。

例えば、「最近忙しい?」と聞かれて、素直に「もう忙しくって大変」と答えるのは、ある意味「自慢」にあたるという場合があるようです。
会社や自営業でいえば、その裏には「儲かってますよ」とか「自分は有能な人間でひっぱりだこなのです」というメッセージを相手が受け取りかねない、というわけです。

そういう私は、若い頃、組織の中で先輩達の会話を耳にしながら、本当は忙しいのに、謙遜した表現を使っていることを、ちょっと不思議に感じていました。
私自身は、自分が忙しいということを隠すことには無頓着だったように思います。
暑ければ「暑いね」、お腹が空けば「お腹空いた」というのと同じように、忙しければ「ちょっと最近ハードで」などと言っていたように思います。

他にも「疲れた」「つまらない」などとマイナスの言葉を口にすることは、他人にも同様の気分を伝えるので、抑えるべきだ、という考え方があるようです。

いろいろ総合して考えると、場面によって、また人によって感じ方が違うようです。

例えば同じ仕事をしている仲間うちで「今日は忙しいね」「おつかれさま〜」というのは、いたみを共有するという意味ではよい場合もあるでしょうし、それでも違和感を覚える方もいるようです。

取引先に対しては、「忙しくて」というのは、やはりマナー上、よくない場合も多いように感じます。

また相手によっては、マイナスの言葉だとしても、正直に自分の状態を伝えることがコミュニケーションとしては必要な場合もあると思います。

ということで、杓子定規に「忙しい」といってはいけない、ということではないようですが、場合によっては気をつけたほうがよいという理由をあらためて確認できました。



さて、本当は何を書きたかったのかというと、「忙しい」ということの中にある幸せについて、でした。

つまり、前回からブログを書くことに心があるものの、日々の「しなければならないこと」をこなすことがやっとで、書けなかったのです。
時間は自分で作るもの、といわれることがありますが、どう作ろうとしても、仕事とプライベートと合わせて、他の優先順位が高いもので精一杯、という状況でした。

結局こうして、私は忙しかった、と言っているわけですが、特に自慢ではありません。
よく考えてみると、そういう状況を作ったのは、ほかでもない自分だからです。
忙しくなるだろうことがわかっていてそうしたのです。

忙しいことで疲れがでて、一瞬見失いかけましたが、もう一度なぜ自分がこの状況を作ろうとしたのか、と考えました。

何かを得ようと思ったからです。

疲れてしまうと、休みたい、と切に思ってしまうのですが、自分を先に追いつめることで自分の中からエネルギーを引っ張り出せることもあるように思います。

さて、自分は何かを得られたか? それは、これからゆっくり考えようと思いますが、少なくとも「やらないよりはやってよかった」ということになると思います。


多くの格言・名言を残したことで知られるアメリカの作家、マーク・トウェインの言葉に「忙しいこと、人間の唯一の幸福はそれだ」というものがあります。

彼は皮肉屋で有名だったので、この言葉を解釈すると単純に忙しいことが幸福だと言っているのではなく、「忙しい時には、不幸について考えている暇はない」とも受け取れます。


私としては、また少し違った角度から、忙しさの質が幸・不幸をわけるのではないかと考えます。

質のよい忙しさと、その途中にある、ゆったりとしたくつろぎの時間、どちらも今の私には「幸せ」と感じるもののひとつです。これらをバランスよく取り入れた生活をすることが、私の目指す幸せなのかもしれません。


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2012年02月12日

幸せの定義・8

〜幸せを探すコツ・幸せの種類を考える〜

コラムの最初のほうで、「幸せの定義づけはしない」というようなことを書きました。
タイトルと矛盾するようですが、それぞれの人にとっての「幸せの定義」はあると思うのです。

でも、何が幸せなのかは私が決めることではない、だからこそ、いろんな「幸せ」について考えてみたい、と思ったのです。

そして、このコラムを書いている間に、ちらほらと、いろんな人の「幸せ」の話を聞くことができました。
コラムを読んでくださって、それを意識して話してくれた方もいれば、特にコラムとは関係なく幸せを感じた瞬間について話してくれた方もいます。


具体的な内容は書きませんが、いろんな人のお話を聞いて私が感じたことは、幸せにはいろんな種類があるんだなあ、ということです。

例えば、毎日、ふとした瞬間に感じる「一瞬の幸せ」があるとすれば、長い間の「幸せな時代」とでもいうようなものもあります。

それから、時間の軸を意識してみると、「過去の幸せの記憶」、「未来に描く幸せの夢」、そんなことを<今>意識することで、感じられる幸せがあります。

そしてまた、「一人で感じることのできる幸せ」や「一人でしか感じることができない幸せ」があれば、「自分以外の存在があって感じられる幸せ」もあります。

「自分が幸せなことに気づいている」場合があれば、自分では意識していないけれど、他人から見ると充分幸せ、ということもあると思います。


これだけ、例を挙げただけでも、自分では忘れていた<幸せ>がいくつか思い浮かんできたりしないでしょうか。


時々、カウンセリングでの会話で、「そして、幸せを感じる時間を少しずつ増やしていきましょう」とお話させていただくことがあります。

自分にも当てはまるのですが、嫌なこと、否定的な考えに捉われている時間が長いほど、幸せを感じる、あるいは心地よさを感じる時間は必然的に少なくなるわけです。

人間には、習慣づけというものがあるので、こういったことも毎日の癖になってくると、どんどん「幸せな感じ」から遠ざかっていくような気がします。

探せば「幸せな瞬間」はあるのだろうけれど、毎日何かしら、嫌なことのほうがインパクトがあるかもしれないですね。
その嫌なことを感じている時間を減らすにはどうしたらよいでしょうか。

これもまた、人それぞれ答えは違うはずなので、カウンセリングというものは、それを考えるための時間である、ということにもなりそうです。

私も、私自身の幸せな時間を増やせるように、模索し続けています。


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2012年02月05日

幸せの定義・7

〜「箱」の中にある幸せ〜

先日、私的な祝い事があり、私はワインの栓を開けようとしていました。
ワインは好きで、これまでも何度も同じ事をしてきた筈なのに、その時に限って、ふと子供の頃の思い出が甦りました。

小学校の低学年か中学年だったと思いますが、学校の授業で使うために必ず持ってくるように言われたものがあったのです。
それは、「マヨネーズかケチャップの入れ物」と「コルク」でした。

マヨネーズやケチャップはともかく、コルクなんて、子供には自分で手に入れるのは難しく、親に頼むしかありません。うちではワインを飲む習慣がなかったので、早めに予告されたものの、しばらくの間、悩みの種となりました。

結局親が用意してくれたのか、友達が余分にあるというのを譲り受けたのか、記憶が定かではありませんが、何とか準備したような気がします。
ただ、子供心に「コルク」というものが複雑な意味をもって心に刻みつけられたような気がします。

そのことを、久しぶりに思い出したのです。この「コルク」で、悩んだなあ、と。


それから、どうして先生は全員にコルクなんかを持ってくるように言ったのだろう、と考えました。
思い出すと、他にも何に使ったのかは覚えていませんが、缶詰の空き缶とか、割り箸とか、結構いろいろと変わった「持ち物」があったように思います。

でも、コルクに関しては、大人の今考えても、困る子供が多かったのではないかと思います。
とりたててワインブームも到来していなかったし、ワインを飲む習慣、お酒を飲む習慣がない家庭だって多いはずです。
それでもコルクを持ってこいというのは、ちょっと家庭に負担をかけてないかな、と今になって思います。
(子供の頃は、ただ困った困ったと思うばかりでした)

そこまで考えて、また別の考えが浮かびました。
受け取りようによっては、こんなことを言う先生は、家庭の事情に想像を巡らせてくれていない、と責めたくもなりますが、もしかすると、この課題があったために、わざわざワインを購入した親も多かったかもしれません。

そして、普段飲まないワインを開けて、夫婦でゆっくり語りあったりしたなら、思いがけず、素敵な時間のプレゼントになったかもしれません。
そんな家庭もあったと想像したら、なんだか幸せな風景が広がる気がしてきました。

本当のところは、わからないのですが……。



なんで? どうして? と、自分の置かれた状況を不満に思うことは日々起こりうることです。
職場や学校、家庭など所属していることによって、強制的に何かをしなければならないことも多いと思います。

そんな時、嫌だなあ、とか自由になれたらどんなに楽かなあ、と私は思うことも多いのですが、逆に、自分の意志とは関係なく強制されるからこそ、得られることも案外多いのではないかと思います。

決められた箱に閉じ込められていると思うと、窮屈な気分になるかもしれませんが、自由だったなら自分では絶対しない・できないことをすることで、ステップアップできるチャンスも隠れています。

時には、その「箱」を利用して、自分の考え方を見直したり、試したり、新しい力をつけることも幸せに近づく方法のひとつかもしれない、と思います。

例えば、人間関係もそのひとつ。一人ひとり個性の違う人の集まりの中、<自分が>どうすれば心地よく過ごすことができるのか、模索するチャンスでもあります。

ワインの栓を開け、香りを確かめながらそんなことを思いました。


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2012年02月01日

幸せの定義・6

〜「幸せになる」という決意〜

皆さんは、誰もが当然のように「幸せになりたい」と思っている、と思うでしょうか。
当然だという方は、こんな質問さえ思いつかないと思います。
誰だって幸せになりたいだろう、と考えるのは当然のことかもしれません。

人生の最初の頃は素直にそう思っていても、途中の経験がその人の心の奥底に変化を起こすことがあります。

「(自分は)幸せになれないかもしれない」
「(自分は)幸せになってはいけない」
「(自分は)幸せにならなくてもいい」

こういった信念は、自分自身が意識している場合もありますし、はっきりとは意識していない場合もあります。
どちらの場合にしても、「幸せになりたい」と思っている人に比べると、幸せになれる確率は、少しだけ低いような気がします。

幸せになりたいと思っている人は、自分にとっての幸せとは何か、について時々考えたりします。
そして、それに近づくためにはどうすればいいか、と行動を起こします。

一方、幸せになりたいと思っていない人は、自分の無意識の脚本にそって、自暴自棄になったり、最初から諦めていてチャンスを逃したり、ほんの少しの言葉や態度がよい出会いに繋がらなかったり、ということが多くなるからです。


幸せでないより、幸せなほうがいいに決まっている……普通に考えればそうなるはずなのに、どうして、幸せになりたいという気持ちを失ってしまうのでしょうか。
それは、「余程のこと」があったのだと私は思っています。その余程のことが、幸せになることを諦めさせたり、その資格を失ったと感じさせたり、罪悪感を感じさせたりするのではないでしょうか。

だから、簡単には、気持ちを変えたほうがいいよ、とアドバイスする気にはなれません。

幸せになることを諦めてしまうほどの体験とは、どういうことでしょうか。
これは、わかる人にはわかる、としか言いようのないことのようにも思います。
理由はそれぞれ違うかもしれません。

ただ、多くの場合、上に書いたように、「自分は」という条件がつくような気がします。
自分は、幸せになってはいけない人間なのだ、と。

私の望みのひとつは、そういう気持ちに至った人が、また新たな経験を通して、しっかりと「幸せになりたい」と決意し直すことです。

時間がどれだけかかっても、考え続けてほしいのです。
「一人の人間が幸せになること」は、おそらく「幸せな人を増やしていくこと」になると思うからです。

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posted by サトウマリコ at 20:58| Comment(2) | コラム

2012年01月28日

幸せの定義・5

〜「出会い」という幸せ〜


私が「幸せ」と定義したいことのひとつに、人との出会いがあります。

モノとの出会い、出来事との出会い、言うなれば人生は毎日が何かとの出会いの連続です。

そんな中、人との出会いは、最も人の感情に訴えかけるもののひとつと言えるのではないでしょうか。

私はよく本からいろいろな情報を得ます。
本という形態が昔から好きでした。
本は<物>だけれど、活字を通して、時間と距離を超えて、著者との出会いがそこにあるように感じます。
極端な話、古文書を解読すれば、何百年も前の人が考えたことがわかるわけで、非常に興味深いことだと思います。

書店や図書館、今だとインターネットで検索すると自分が読みたい本と出会えるわけですが、考えてみると、何十万冊という書物の中から一冊を選び出したというのは、もちろん自分の意志もあるわけですが、偶然が作用するある意味運命的な出会いともいえるのではないかと思います。


では、人との出会いはどうでしょうか。

自分が生まれた家、育った家の家族は、自分では選ばなかったかもしれません。
普通に考えれば、選ぶものではありません。でも、どんな親であろうと、最初に親という自分以外の人間と出会うわけです。

家から出て、学校や社会に出ると、数え切れない他人がいます。

その中で、言葉を交わす人、時々会う人、深く付き合う人など、自分にとって関わりのある人との出会いがあります。

家族にしろ他人にしろ、相手との相性があり、様々な感情を持つことでしょう。その感情もひとつではなかったり、時間が経つにつれて変化することもあります。

沢山の偶然、若しくは、必然性のある出会いが、ひとりの人間に訪れます。


もし、あの時、ああしなかったら……。
もし、あの時、この道を選んでいなかったら……。

この経験があったから、この経験に繋がって……。

いろんな道を辿って、そしてその先に、自分の運命に深く関わる<出会い>が人には何度か訪れるのではないかと思います。


相手との出会いをどう受け取るかは、その人の生き方、考え方次第、といえることも多くあると思います。

でも、いろいろな理屈を遥かに超えて、「この人に会えて本当によかった」と思える、明らかに特別のものがあったら、私はそれを「幸せ」だと定義したいと思います。

それは、一緒に過ごした時間の長さや、二人の関係性を規定する必要はなく、ただ自分がそう思えればよいことなのではないかと思います。



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posted by サトウマリコ at 22:29| Comment(0) | コラム

2012年01月24日

幸せの定義・4

〜「幸せ」について考えると、何かを確認できる〜


私がまだ社会人になって間もない頃、少しくだけた席で、10歳近く年上の男性が言いました。

「幸せになりなさいよ」

私は即座に聞き返していました。
「幸せってどういうことですか?」

その人は、少しとまどったように、その人の考える「幸せの定義」を述べてくれました。
曰く「結婚して、旦那がちゃんとお金を入れて、何不自由なく安心して暮らせることが幸せなんじゃないか?」

それ以上、話は続かなかったように思いますが、心の中で、私は確信を持ちました。
それは、私にとっての「幸せ」ではない、と。

あくまで、私にとって、の話ですが、若く好奇心に満ち溢れていたその頃の私には、「自分自身の力でやってみたい」感覚が強く、誰かの力で「安心」を得て暮らすことには、全く魅力を感じなかったように思います。
そして、同じレベルで考えるとすれば、自分にとっての幸せは、生活の苦楽は別として、志の合う人と、目標に向って一緒に進むこと……そんなイメージだったと思います。
あるいは、心から夢中になれるもの、生涯を通して力を注げるものに出会うことも幸せのひとつと考えていました。

人によって、幸せの定義は違います。
早くから「結婚して家庭を持って子供を産む」という意志を持っている人は、その方向に向かって行動し、実際そうなっているケースが多いと何かの本に書いてあった記憶があります。確率で考えると当然かもしれません。

そして、私の場合は、また違った方向を目指していたので、結果的には、昔描いていた通りの生活に近い状態になれています。
ですので、幸せかといわれると今私は幸せなのです。
もちろん、もっと先の幸せもあって、それもやはりもっと目標に近づくとか、もっと強く好きなものを意識できるようになる、といったイメージです。

こういう形での「幸せの定義」は、その人の生き方の指針、価値観のようなもの、と言えるかもしれません。
もし、人に訊ねたら、人の数だけいろいろな答えが出てくるかもしれないし、大まかな方向性に分かれるのかもしれません。

そして、もっと小刻みにできる「幸せの定義」もあるのではないか、と思います。
人生のずっと先にあるような幸せではなく、<今>目の前にあるような幸せです。

遠くの幸せを考えることは、長いスパンで自分の道を生きる拠りどころとなるでしょうし、目の前の幸せに気づくことは、日々の心の栄養のようなものではないかと思います。

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「幸せ」という言葉は、私にとって、何か正面から使うのが気恥ずかしいような言葉でもあるのですが、こうして考え始めると、このキーワードでいろいろなことが発見できそうな気がしています。
posted by サトウマリコ at 00:37| Comment(0) | コラム

2012年01月20日

「幸せ」の定義・3

〜「幸せ」を感じる力〜


「幸せ」という言葉が出てきた一番古い記憶は、幼稚園の頃です。

その時は、母と一緒に部屋にいて、母は洗濯物をたたむか、アイロンをかけるか、といった作業をしていたように思います。私はその近くでオモチャで遊んでいました。

母がふと、私に「おまえは今幸せ?」と訊ねてきました。

幼稚園児に訊ねる言葉としては、あまりにシビアなものに私自身は感じたように思います。
そして、そんなふうに子供に訊く母は、今幸せではないのではないか、などと漠然とですが、邪推したような気がします。
なんと答えたのか覚えていませんが、多分、そう訊かれたら「うん」と答えるしかなかっただろうな、と思います。

母はもう覚えていないでしょうし、どういうつもりで訊いた言葉なのか今となってはわかりません。もしかすると、ほんの軽い気持ちだったかもしれません。


次に思い出すのは、中学生の時の先生の言葉です。
学級担任ではなく、国語の教科担任をしてくださっていて、学年で一番厳しい先生でした。
先生方の中では比較的ご年配の女性の先生です。

「あのね、今、どん底だと思っている人が、あなたたちの中にはいるかもしれない。でもね、どん底だってことは、あとは上がるしかないのよ。だから、これから必ず良くなっていくのよ」

こんなことを、もう少し長く、熱く語られていた記憶があります。直接、幸せという言葉は使わなかったかもしれません。でも、この話は私の中では、幸せというテーマと同然に感じられるのです。

中学生の頃というのは、小学校とも高校とも違い、数年での変化がかなり著しい時期です。体も心も不安定な生徒を教育するのは、簡単なことではないと今となっては容易に想像がつきます。
ただ、そういった理由で必然性があったのか、生徒の目線からの記憶としては、来る日も来る日も、いろんな場面で、いろんな先生方が「お説教」していた、という印象が強いのです。
そして、何故か、記憶に残っているのは、お説教の内容ではなく、先生方の叱責する表情や口調など、そんなものばかり。

なので、はっきりと覚えているこの先生の言葉は、かなり私にとっては印象が深かったものだったと思います。

この先生は、一番厳しく、そして一番優しかったのではないか、と今は思います。


いろんなことに言えると思いますが、苦しみを経験して、初めて普段どれだけ幸せだったか、ということに気づく、ということがあります。

体のどこか一部が痛くなった……例えそれが、命に差しさわりのない虫歯の痛みだったとしても、「痛くない」ことへのありがたみを感じることでしょう。

その考え方でいくと、辛い思いを沢山した人ほど、幸せを感じる力も備わっている、といえるかもしれません。少なくとも、幼稚園児の私は、自分が幸せかどうかなんて、「わからない」としか感じようがなかったはずです。でも、今の自分は、少なくともしっかりと「幸せ」と感じる力を持っています。何十年を生きていると、さすがに「辛い」ことも経験できるので……。


実際には、辛い思いをすると、哀しみや怒りが生まれると思います。誰かにぶつけたり、でもどうぶつけていいかわからなかったり、更には憎んだり、妬んだり、絶望したり、多くの感情を経験するでしょう。

そこを通らずに、ただ「辛い思いをしたんだから、無いものではなく、今あるものに目を向けて幸せを感じましょう」とは言いたくないのです。

ちゃんと、自分の感情に向き合って向き合って、そこから何かを得られたなら、次には心に平和が訪れるものだと、そう思いたいのです。

こうして書いていることの背景に、頭の中では心理学の理論はもちろんちらついていますが、どちらかというと、自分の感覚を頼りにしているところが大きいです。

そして何か大きな経験をして、幸せをひとつでも感じられるようになったら、今度は、一つひとつ対極的な経験をしなくても、「今」の幸せを感じる力が敏感になっていくのでは、とも感じています。対極的というのは、例えば「病気と健康」「孤独と愛情」「束縛と自由」「生と死」などです。


国語の先生が目の前の中学生たちに伝えたかったこと……昔の自分は、噛みしめるようにその言葉を聴いていましたが、今の自分はその時の先生の心境に近づいてきているかもしれません。


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posted by サトウマリコ at 00:21| Comment(2) | コラム

2012年01月19日

「幸せ」の定義・2

〜「言葉」の奥にあるもの〜

「幸せ」について何を書こう、と思いを巡らせながら過ごしていたら、一日気分がよいのです。
たまたまかもしれませんが、嫌なことを思い浮かべるよりは、少しでも「幸せ」な記憶を引っ張り出そうとしているのだから、不思議なことではないのかもしれません。

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例えば、「私は楽しいことをしている時が幸せ!」と言う人と、「誰かの役に立っていると思える時が幸せ」と言う人がいたとして、その二人に対してどのようなイメージを持つでしょうか。

「楽しいこと……」の人は気楽な感じ、「人の役に……」の人は真面目な感じ、そんなふうに思う人がいるかもしれません。
また、どちらが自分の感覚に近いかによって、親しみを感じたり、反発を覚えるということもあるかもしれません。


けれど、考えてみると、この二つの言葉だけで、その<人となり>を知るのは実は難しいことだと思います。
こうして、文章を読んで感じることは、おそらく読んでいる人自身が持つ経験や価値観を多く反映した想像に基づいているのではないでしょうか。


楽しいことを意識して追い求めることで、仲間が増え、多くの人に何かを与えることができるかもしれません。逆に、自分だけの楽しみを追求し、自己中心になる可能性もあります。

人の役に立とうと考えるだけで実際には行動が狭まってしまうこともあるでしょうし、逆に、本気で取り組んで、本当に人の役に立っている人もいると思います。

言葉と実像の間には距離があります。
そして、実像すら、ひとくくりにすることは難しい、あいまいなものではないかと思うのです。
見る人によって、状況によって、記憶の長さによって……随分と違うような気がします。


これから時々、「幸せ」をテーマにいろいろな角度から考えてみたいと思っています。
多くは私という個人の見方や記憶を頼りに、また時には誰かの話を聞いてみたいと思っています。


今日の私の幸せは、「読んでくださる人を思い浮かべながら、文章を書くことの幸せ」を感じられることです。
posted by サトウマリコ at 00:23| Comment(0) | コラム

2012年01月17日

「幸せ」の定義・1

〜「幸せ」って何?〜


先日我が家で小さなホームパーティをしました。

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6月にあるご夫妻を見送りました。そのお二人との思いがけず早い再会でした。

3月に、釣具店を営んでいた陸前高田市で、津波に遭い、九死に一生を得たお二人は、しばらくの間盛岡市の温泉宿「愛真館」で避難生活を送り、やがてカナダへと旅立っていきました。

ちなみに、そのことに少しふれたお話をこのブログで6月22日に紹介しています。
http://satoblog.sblo.jp/archives/20110622-1.html

盛岡に滞在中、3度ほどお会いしました。
夫同士が旧知の仲という関係でしたが、いつも会う時はお互い夫婦そろって、和やかに過ごさせてもらいました。
一度は家へも泊まってもらい、共にした時間は短くはなかったと思います。


震災の時のこと、たわいもないこと、いろんな話をしながら、お互いの夫婦が目指す理想の生活って何? どちらからともなくそんな質問がでました。

その時のご夫妻の答えは、「優雅な生活」。
そして、その生活を目指す一歩として、震災前から描いていた通り、外国へと旅立っていったのです。
私たちは、家に眠っていた少し年季のはいったスーツケースをお貸ししたのです。


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今回は、一時帰国ということで、長い滞在ではありませんが、予定より早くスーツケースは私たちのもとへと返ってきました。旧式のものですが、少なからずお役に立てたようです。
貼られたシールが誇らしげに見えます。


持ち寄ってくださったおいしい手料理をいただきながら、今回もゆっくりと時間を共有しました。
暮らしやすいと言われている、バンクーバーで体験したことから感じたこと、移動後のサンディエゴの話……なるほど、実際に行ってみないとわからないものだな、と新鮮な話ばかりです。

そしてまた、ご夫妻は私たちに聞きました。

行ってみたい国はどこ?

そもそも、どこかへ行こう、行きたい、という将来を描いていなかった私は歯切れの良い答えができません。逆に問い返すと、二人はそろって「楽しいところ!」「そして食べ物がおいしいところ!」と答えました。

ちなみに、最初の質問…どんな生活が理想か? に対する私たちの答えは、「人の役に立つことをしたい」でした。

そして「楽しいところ」という答えを受けて、私が考えたことは、「楽しい」ってなんだろう? でした。

多分、少なくとも私にとって、「楽しい」は盛岡を離れなければ経験できないこととは限らないような気がします。

けれど、今明確に、これをしていれば「楽しい!」「幸せ!」と結構大きな尺度で思えるものがないのも確かです。


私たち夫婦は、相手のご夫婦と対照的な価値観を持って、対照的な行動をとっているようにも思えます。

でも、お互いの心地よい距離感が、その違いを興味深いものに感じさせてくれるのです。

「楽しい」って何?
「幸せ」って何?

これまでも、時々、人生で顔を出したことがある問が、また自分の胸に拡がり始めました。

「幸せ」を定義づけすることはしません。

ただ、いろんな「幸せの定義」について考えてみたくなったのです。


ちなみに、今日、外での仕事が終わったあと、夜空を見上げました。そこは高台で盛岡でも星がとても綺麗に見える場所です。
オリオン座を見つけました。
私はオリオン座が子供の頃から好きなのです。
ふっと一瞬感情が走りました。その時、私は「幸せ」を感じたかもしれません。(続く)
posted by サトウマリコ at 23:50| Comment(0) | コラム

2011年12月30日

新しい年にむけて

2011年が暮れていきます。
忘れられない年、と感じている日本人や、関心を持ってくださる世界中の方が多くいると思います。
私もその一人です。
そのことには変わりありません。

しかし、当たり前のことかもしれませんが、2011年が終わったからといって、その忘れられない理由を過去のことにできる、というわけではありません。
実際のところ、私は、本当に3月以降の出来事に向きあっているという自信がありません。

直視すると、耐えられないような気がして、目を逸らし続けていることがあります。
もっとできることがあるはずなのに、動いていない自分にもどかしさも感じています。

もどかしさを感じつつも、動けないことには私個人の理由があり、それはそれで認めようと思っています。

つまるところ、私自身は、これまでもこれからもどこかへ向かっていく途中、ということです。

それは、3月の震災についてだけではありません。

地球上には沢山の問題があります。
私たちはその全てに対して深く関心を持つことは難しい。

どうにか、自分のできること、するべきことを見極めて、やっていくしかないと思っています。

ここまでやってこれたのは、なんらかの形で関わってくださった多くの方々と、自分をとりまくいろいろな世界のおかげですね。
全ての経験に感謝しつつ、新たな年を迎えたいと思います。

このような心境のこの頃です。

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皆様は、どのような年末をお過ごしでしょうか。
新たな年を穏やかに迎えられますよう、お祈りしております。


posted by サトウマリコ at 19:06| Comment(0) | 日記