2012年09月02日

コトコト煮る

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先日、家族の記念日があり、久しぶりに「煮込み」ました。
少し疲れた体にムチ打って……その日ばかりは丁寧に時間をかけて、家族の好きなカレーを煮込み、たまたま知人に頂いた生のバジルの葉をすり鉢ですって、トマトとモッツァレラチーズにトッピングしてサラダにしました。
自分でいうのもなんですが、まあまあ、満足できる味でした。
ほんの少しの違いなのですが、10年前の自分には、多分その味は出せなかったのではないかと思います。


私の料理のルーツはもちろん母で、母自身料理は今でも日々丁寧にしているほうだと思います。

子供の頃から、よく台所の脇に立たされて、細々としたこと(ゴミをすてるとか、材料を持ってくる、とか)をしながら「見て覚える」方式で育ちました。

そして一人暮らしをするようになり、初めて自分だけの台所を持った時、私は母直伝の料理をしたり、友人と外食した時に「美味しいなあ」と思ったものをまねてみたりしたものです。

長い間、気づかなかったことですが、そんな母流・自分流の料理の仕方には、ちょっとしたクセがありました。
それは、なるべく「速く」作ることです。
テキパキと材料を刻んで洗って、鍋に入れ、煮込む間に、洗い物をして……修羅場のようなスピードの料理姿は、正直、人には見せられないと思うほどでした。


弱火で煮込むことで、料理の味が変わることを知ったのは、恥ずかしながら結婚してからです。
夫も料理ができる人なので、時々私と交代してくれることがありました。

おそらくじゃまされるのは嫌だろうな、と思い、お互いの料理の仕方には口を出さなかったのですが、お味噌汁を弱火で煮ている様子をちらっと見て、私は不思議に思ったのです。

強火とはいわないけれど、もう少し火力を強めて、素材も小さく切った方が速くできます。
不思議に思いながらも、そのことを口には出しませんでした。理由がわからないまま、とりあえず相手のやり方を尊重しよう、と思っただけでした。


家事と仕事を両立していた母も、仕事で疲れ少しでも手早く料理を済ませたかった私も、普段の料理はとにかくいかに最短コースで作れるか、を大事にしていたと思います。

そのせいか、私は「料理に時間をかける」ことが大分億劫になっていたようです。
1時間かけるのが、やっとでした……。

やがて夫が何かを煮込む様子を何度も見る度に、少しずつ理由がわかってきました。
「なぜこんなに大きくじゃがいもを切るの?」
「なぜ休日の貴重な時間を割いて、時間をかけて弱火で煮るの?」
直接的に訊いたわけではありませんが、「そうするほうが美味しくなる」ことはわかってきました。
そして、直に私もそのやり方をするようになっていったのです。
おそらく夫は夫で、義母の料理をする姿を何気なく見ていたのだろうと思います。


今も忙しい時は、「手作り」することだけがやっと、という日もありますが、こうして時間をかけてコトコト煮込むと不思議と気持ちが落ち着いてくるのですね。料理も美味しいですし。そんなことを、あらためて感じました。


仕事や、他のいろんなことも、目標を最短距離で達成しようとすることは、一見やる気に溢れてよいことのように感じる時もありますが、一つひとつの素材を大切に、ゆっくり時間をかけて、細くても絶やさずに気持ちを持ち続けることで、深い味わいが出せる、そんなこともあるかもしれないと思います。


仕事に忙しかった母も、今は退職してゆったりとした時間が流れているようです。たまに遊びに行くと出してくれる料理の味も心なしか変わったようです。特にお味噌汁が違うなあ、と思います。
優しくなったような……単に塩分を控えめにしているのかもしれないですが。
posted by サトウマリコ at 11:22| Comment(0) | コラム

2012年06月03日

感情の記憶

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子供の頃、不思議に思っていたことがありました。

大人は昔、子供だったのに、どうして子供の気持ちがわからないんだろう?

例えば、大人にしてみればしつけや教育として当然だという理屈でも、子供心に「理不尽だなあ」と思われる叱られ方をした時に、よくそう思っていたような気がします。

そして、「私は、今のこの気持ちを大人になっても忘れないようにしよう」と決心したのです。


果たして、「大人」になった今、どうでしょう。


カウンセリングでは、カウンセラーは話し手の気持ちに「共感」をします。ここでの「共感」は、「同意する」という意味ではなく、「共に感じる」という姿勢で聴くということです。


自分でいうのもなんですが、大人の方と話している時と同じように、中学生や高校生と話している時も、すっと共感できる自分がいます。

あくまでも、本人とすっかり同じ気持ちになるのではなく「きっとこういう気持ちなんだろうなぁ」と自分の心で理解する、ということになるわけですが、それでも、「まったく想像ができない」ということは少ないほうだと思います。

カウンセリングに限らずとも、子供の頃や思春期の、沢山の悩みや葛藤の記憶が、今、人とのコミュニケーションに生きている、と思います。





今日、新聞を読んでいたら、石川啄木の生誕100年祭の記事がありました。

なんでも、啄木と歌手の故尾崎豊には共通点が多いとか。
啄木の「十五の心」の歌と尾崎の「15の夜」という響きを聞いただけでも、納得できる気がします。

それで、あらためて石川啄木の歌はいいな、と思い、自宅の書棚から以前買った「一握の砂・悲しき玩具」の文庫本をひっぱり出してみました。

(序)には、啄木の歌がいかに詠み手と読み手に「共通の感じ」があるか、ということが挙げられています。
素直にに、ずばりと、大胆に率直に詠んだ歌、と評しています。

一方、尾崎豊も子供の頃、父親に短歌を習った時に「素直に自分の思ったままを詠む」ということを教わったそうです。そのことが、彼の作る「ストレートに心に響く歌」に影響しているのかもしれません。





自分が話したことを誰かが共に感じてくれる、これはカウンセリングや、若しくはそういった聴き方をしてもらった時に起こる心の浄化作用につながることだと思っています。

そして、文学や美術や音楽といった芸術は、作者が想いを形に残し、時を経て、他の誰かがその作品に触れ、自分と「共通」の感覚をそこから得られたときに、やはり想いが重なったという心地よい作用があり、そして人の心にエネルギーが湧くのかな、と思います。

だからきっと、多くの人は、芸術を愛しているのではないでしょうか。





せっかくなので、久しぶりに紐解いた文庫本の中から、啄木の歌をいくつか紹介しますね。(著作権は切れています)
皆さんの心に重なる歌はあるでしょうか。

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頬につたふ
なみだのごはず
一握の砂を示しし人を忘れず


たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず


こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて死なむと思ふ


やはらかに積もれる雪に
熱(ほ)てる頬(ほ)を埋むるごとき
恋してみたし


友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買い来て
妻としたしむ


不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心


城址(しろあと)の
石に腰掛け
禁制の木の実をひとり味(あぢは)ひしこと


ふるさとの訛(なまり)なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく


かの声を最一度(もいちど)聴かば
すっきりと
胸やはれむと今朝も思へる


考へれば、
ほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し。
煙管をみがく。



posted by サトウマリコ at 23:54| Comment(0) | コラム

2012年03月01日

幸せの定義・9

〜「忙しい」という幸せ〜


久しぶりにブログを書きます。
「ずっと書きたいことは頭にあったのに……」と出だしの文章を考えながら、ふと気になることが浮かびました。

自分が忙しいと思わせることを他人にいうのは、美徳ではないという、いわゆるビジネスマナーがあったような……恥ずかしながら、うっすらした記憶を辿り、自分がそれについてあまりつきつめたことがなかったので、調べてみました。

例えば、「最近忙しい?」と聞かれて、素直に「もう忙しくって大変」と答えるのは、ある意味「自慢」にあたるという場合があるようです。
会社や自営業でいえば、その裏には「儲かってますよ」とか「自分は有能な人間でひっぱりだこなのです」というメッセージを相手が受け取りかねない、というわけです。

そういう私は、若い頃、組織の中で先輩達の会話を耳にしながら、本当は忙しいのに、謙遜した表現を使っていることを、ちょっと不思議に感じていました。
私自身は、自分が忙しいということを隠すことには無頓着だったように思います。
暑ければ「暑いね」、お腹が空けば「お腹空いた」というのと同じように、忙しければ「ちょっと最近ハードで」などと言っていたように思います。

他にも「疲れた」「つまらない」などとマイナスの言葉を口にすることは、他人にも同様の気分を伝えるので、抑えるべきだ、という考え方があるようです。

いろいろ総合して考えると、場面によって、また人によって感じ方が違うようです。

例えば同じ仕事をしている仲間うちで「今日は忙しいね」「おつかれさま〜」というのは、いたみを共有するという意味ではよい場合もあるでしょうし、それでも違和感を覚える方もいるようです。

取引先に対しては、「忙しくて」というのは、やはりマナー上、よくない場合も多いように感じます。

また相手によっては、マイナスの言葉だとしても、正直に自分の状態を伝えることがコミュニケーションとしては必要な場合もあると思います。

ということで、杓子定規に「忙しい」といってはいけない、ということではないようですが、場合によっては気をつけたほうがよいという理由をあらためて確認できました。



さて、本当は何を書きたかったのかというと、「忙しい」ということの中にある幸せについて、でした。

つまり、前回からブログを書くことに心があるものの、日々の「しなければならないこと」をこなすことがやっとで、書けなかったのです。
時間は自分で作るもの、といわれることがありますが、どう作ろうとしても、仕事とプライベートと合わせて、他の優先順位が高いもので精一杯、という状況でした。

結局こうして、私は忙しかった、と言っているわけですが、特に自慢ではありません。
よく考えてみると、そういう状況を作ったのは、ほかでもない自分だからです。
忙しくなるだろうことがわかっていてそうしたのです。

忙しいことで疲れがでて、一瞬見失いかけましたが、もう一度なぜ自分がこの状況を作ろうとしたのか、と考えました。

何かを得ようと思ったからです。

疲れてしまうと、休みたい、と切に思ってしまうのですが、自分を先に追いつめることで自分の中からエネルギーを引っ張り出せることもあるように思います。

さて、自分は何かを得られたか? それは、これからゆっくり考えようと思いますが、少なくとも「やらないよりはやってよかった」ということになると思います。


多くの格言・名言を残したことで知られるアメリカの作家、マーク・トウェインの言葉に「忙しいこと、人間の唯一の幸福はそれだ」というものがあります。

彼は皮肉屋で有名だったので、この言葉を解釈すると単純に忙しいことが幸福だと言っているのではなく、「忙しい時には、不幸について考えている暇はない」とも受け取れます。


私としては、また少し違った角度から、忙しさの質が幸・不幸をわけるのではないかと考えます。

質のよい忙しさと、その途中にある、ゆったりとしたくつろぎの時間、どちらも今の私には「幸せ」と感じるもののひとつです。これらをバランスよく取り入れた生活をすることが、私の目指す幸せなのかもしれません。


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posted by サトウマリコ at 14:01| Comment(2) | コラム

2012年02月12日

幸せの定義・8

〜幸せを探すコツ・幸せの種類を考える〜

コラムの最初のほうで、「幸せの定義づけはしない」というようなことを書きました。
タイトルと矛盾するようですが、それぞれの人にとっての「幸せの定義」はあると思うのです。

でも、何が幸せなのかは私が決めることではない、だからこそ、いろんな「幸せ」について考えてみたい、と思ったのです。

そして、このコラムを書いている間に、ちらほらと、いろんな人の「幸せ」の話を聞くことができました。
コラムを読んでくださって、それを意識して話してくれた方もいれば、特にコラムとは関係なく幸せを感じた瞬間について話してくれた方もいます。


具体的な内容は書きませんが、いろんな人のお話を聞いて私が感じたことは、幸せにはいろんな種類があるんだなあ、ということです。

例えば、毎日、ふとした瞬間に感じる「一瞬の幸せ」があるとすれば、長い間の「幸せな時代」とでもいうようなものもあります。

それから、時間の軸を意識してみると、「過去の幸せの記憶」、「未来に描く幸せの夢」、そんなことを<今>意識することで、感じられる幸せがあります。

そしてまた、「一人で感じることのできる幸せ」や「一人でしか感じることができない幸せ」があれば、「自分以外の存在があって感じられる幸せ」もあります。

「自分が幸せなことに気づいている」場合があれば、自分では意識していないけれど、他人から見ると充分幸せ、ということもあると思います。


これだけ、例を挙げただけでも、自分では忘れていた<幸せ>がいくつか思い浮かんできたりしないでしょうか。


時々、カウンセリングでの会話で、「そして、幸せを感じる時間を少しずつ増やしていきましょう」とお話させていただくことがあります。

自分にも当てはまるのですが、嫌なこと、否定的な考えに捉われている時間が長いほど、幸せを感じる、あるいは心地よさを感じる時間は必然的に少なくなるわけです。

人間には、習慣づけというものがあるので、こういったことも毎日の癖になってくると、どんどん「幸せな感じ」から遠ざかっていくような気がします。

探せば「幸せな瞬間」はあるのだろうけれど、毎日何かしら、嫌なことのほうがインパクトがあるかもしれないですね。
その嫌なことを感じている時間を減らすにはどうしたらよいでしょうか。

これもまた、人それぞれ答えは違うはずなので、カウンセリングというものは、それを考えるための時間である、ということにもなりそうです。

私も、私自身の幸せな時間を増やせるように、模索し続けています。


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2012年02月05日

幸せの定義・7

〜「箱」の中にある幸せ〜

先日、私的な祝い事があり、私はワインの栓を開けようとしていました。
ワインは好きで、これまでも何度も同じ事をしてきた筈なのに、その時に限って、ふと子供の頃の思い出が甦りました。

小学校の低学年か中学年だったと思いますが、学校の授業で使うために必ず持ってくるように言われたものがあったのです。
それは、「マヨネーズかケチャップの入れ物」と「コルク」でした。

マヨネーズやケチャップはともかく、コルクなんて、子供には自分で手に入れるのは難しく、親に頼むしかありません。うちではワインを飲む習慣がなかったので、早めに予告されたものの、しばらくの間、悩みの種となりました。

結局親が用意してくれたのか、友達が余分にあるというのを譲り受けたのか、記憶が定かではありませんが、何とか準備したような気がします。
ただ、子供心に「コルク」というものが複雑な意味をもって心に刻みつけられたような気がします。

そのことを、久しぶりに思い出したのです。この「コルク」で、悩んだなあ、と。


それから、どうして先生は全員にコルクなんかを持ってくるように言ったのだろう、と考えました。
思い出すと、他にも何に使ったのかは覚えていませんが、缶詰の空き缶とか、割り箸とか、結構いろいろと変わった「持ち物」があったように思います。

でも、コルクに関しては、大人の今考えても、困る子供が多かったのではないかと思います。
とりたててワインブームも到来していなかったし、ワインを飲む習慣、お酒を飲む習慣がない家庭だって多いはずです。
それでもコルクを持ってこいというのは、ちょっと家庭に負担をかけてないかな、と今になって思います。
(子供の頃は、ただ困った困ったと思うばかりでした)

そこまで考えて、また別の考えが浮かびました。
受け取りようによっては、こんなことを言う先生は、家庭の事情に想像を巡らせてくれていない、と責めたくもなりますが、もしかすると、この課題があったために、わざわざワインを購入した親も多かったかもしれません。

そして、普段飲まないワインを開けて、夫婦でゆっくり語りあったりしたなら、思いがけず、素敵な時間のプレゼントになったかもしれません。
そんな家庭もあったと想像したら、なんだか幸せな風景が広がる気がしてきました。

本当のところは、わからないのですが……。



なんで? どうして? と、自分の置かれた状況を不満に思うことは日々起こりうることです。
職場や学校、家庭など所属していることによって、強制的に何かをしなければならないことも多いと思います。

そんな時、嫌だなあ、とか自由になれたらどんなに楽かなあ、と私は思うことも多いのですが、逆に、自分の意志とは関係なく強制されるからこそ、得られることも案外多いのではないかと思います。

決められた箱に閉じ込められていると思うと、窮屈な気分になるかもしれませんが、自由だったなら自分では絶対しない・できないことをすることで、ステップアップできるチャンスも隠れています。

時には、その「箱」を利用して、自分の考え方を見直したり、試したり、新しい力をつけることも幸せに近づく方法のひとつかもしれない、と思います。

例えば、人間関係もそのひとつ。一人ひとり個性の違う人の集まりの中、<自分が>どうすれば心地よく過ごすことができるのか、模索するチャンスでもあります。

ワインの栓を開け、香りを確かめながらそんなことを思いました。


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2012年02月01日

幸せの定義・6

〜「幸せになる」という決意〜

皆さんは、誰もが当然のように「幸せになりたい」と思っている、と思うでしょうか。
当然だという方は、こんな質問さえ思いつかないと思います。
誰だって幸せになりたいだろう、と考えるのは当然のことかもしれません。

人生の最初の頃は素直にそう思っていても、途中の経験がその人の心の奥底に変化を起こすことがあります。

「(自分は)幸せになれないかもしれない」
「(自分は)幸せになってはいけない」
「(自分は)幸せにならなくてもいい」

こういった信念は、自分自身が意識している場合もありますし、はっきりとは意識していない場合もあります。
どちらの場合にしても、「幸せになりたい」と思っている人に比べると、幸せになれる確率は、少しだけ低いような気がします。

幸せになりたいと思っている人は、自分にとっての幸せとは何か、について時々考えたりします。
そして、それに近づくためにはどうすればいいか、と行動を起こします。

一方、幸せになりたいと思っていない人は、自分の無意識の脚本にそって、自暴自棄になったり、最初から諦めていてチャンスを逃したり、ほんの少しの言葉や態度がよい出会いに繋がらなかったり、ということが多くなるからです。


幸せでないより、幸せなほうがいいに決まっている……普通に考えればそうなるはずなのに、どうして、幸せになりたいという気持ちを失ってしまうのでしょうか。
それは、「余程のこと」があったのだと私は思っています。その余程のことが、幸せになることを諦めさせたり、その資格を失ったと感じさせたり、罪悪感を感じさせたりするのではないでしょうか。

だから、簡単には、気持ちを変えたほうがいいよ、とアドバイスする気にはなれません。

幸せになることを諦めてしまうほどの体験とは、どういうことでしょうか。
これは、わかる人にはわかる、としか言いようのないことのようにも思います。
理由はそれぞれ違うかもしれません。

ただ、多くの場合、上に書いたように、「自分は」という条件がつくような気がします。
自分は、幸せになってはいけない人間なのだ、と。

私の望みのひとつは、そういう気持ちに至った人が、また新たな経験を通して、しっかりと「幸せになりたい」と決意し直すことです。

時間がどれだけかかっても、考え続けてほしいのです。
「一人の人間が幸せになること」は、おそらく「幸せな人を増やしていくこと」になると思うからです。

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posted by サトウマリコ at 20:58| Comment(2) | コラム

2012年01月28日

幸せの定義・5

〜「出会い」という幸せ〜


私が「幸せ」と定義したいことのひとつに、人との出会いがあります。

モノとの出会い、出来事との出会い、言うなれば人生は毎日が何かとの出会いの連続です。

そんな中、人との出会いは、最も人の感情に訴えかけるもののひとつと言えるのではないでしょうか。

私はよく本からいろいろな情報を得ます。
本という形態が昔から好きでした。
本は<物>だけれど、活字を通して、時間と距離を超えて、著者との出会いがそこにあるように感じます。
極端な話、古文書を解読すれば、何百年も前の人が考えたことがわかるわけで、非常に興味深いことだと思います。

書店や図書館、今だとインターネットで検索すると自分が読みたい本と出会えるわけですが、考えてみると、何十万冊という書物の中から一冊を選び出したというのは、もちろん自分の意志もあるわけですが、偶然が作用するある意味運命的な出会いともいえるのではないかと思います。


では、人との出会いはどうでしょうか。

自分が生まれた家、育った家の家族は、自分では選ばなかったかもしれません。
普通に考えれば、選ぶものではありません。でも、どんな親であろうと、最初に親という自分以外の人間と出会うわけです。

家から出て、学校や社会に出ると、数え切れない他人がいます。

その中で、言葉を交わす人、時々会う人、深く付き合う人など、自分にとって関わりのある人との出会いがあります。

家族にしろ他人にしろ、相手との相性があり、様々な感情を持つことでしょう。その感情もひとつではなかったり、時間が経つにつれて変化することもあります。

沢山の偶然、若しくは、必然性のある出会いが、ひとりの人間に訪れます。


もし、あの時、ああしなかったら……。
もし、あの時、この道を選んでいなかったら……。

この経験があったから、この経験に繋がって……。

いろんな道を辿って、そしてその先に、自分の運命に深く関わる<出会い>が人には何度か訪れるのではないかと思います。


相手との出会いをどう受け取るかは、その人の生き方、考え方次第、といえることも多くあると思います。

でも、いろいろな理屈を遥かに超えて、「この人に会えて本当によかった」と思える、明らかに特別のものがあったら、私はそれを「幸せ」だと定義したいと思います。

それは、一緒に過ごした時間の長さや、二人の関係性を規定する必要はなく、ただ自分がそう思えればよいことなのではないかと思います。



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posted by サトウマリコ at 22:29| Comment(0) | コラム

2012年01月24日

幸せの定義・4

〜「幸せ」について考えると、何かを確認できる〜


私がまだ社会人になって間もない頃、少しくだけた席で、10歳近く年上の男性が言いました。

「幸せになりなさいよ」

私は即座に聞き返していました。
「幸せってどういうことですか?」

その人は、少しとまどったように、その人の考える「幸せの定義」を述べてくれました。
曰く「結婚して、旦那がちゃんとお金を入れて、何不自由なく安心して暮らせることが幸せなんじゃないか?」

それ以上、話は続かなかったように思いますが、心の中で、私は確信を持ちました。
それは、私にとっての「幸せ」ではない、と。

あくまで、私にとって、の話ですが、若く好奇心に満ち溢れていたその頃の私には、「自分自身の力でやってみたい」感覚が強く、誰かの力で「安心」を得て暮らすことには、全く魅力を感じなかったように思います。
そして、同じレベルで考えるとすれば、自分にとっての幸せは、生活の苦楽は別として、志の合う人と、目標に向って一緒に進むこと……そんなイメージだったと思います。
あるいは、心から夢中になれるもの、生涯を通して力を注げるものに出会うことも幸せのひとつと考えていました。

人によって、幸せの定義は違います。
早くから「結婚して家庭を持って子供を産む」という意志を持っている人は、その方向に向かって行動し、実際そうなっているケースが多いと何かの本に書いてあった記憶があります。確率で考えると当然かもしれません。

そして、私の場合は、また違った方向を目指していたので、結果的には、昔描いていた通りの生活に近い状態になれています。
ですので、幸せかといわれると今私は幸せなのです。
もちろん、もっと先の幸せもあって、それもやはりもっと目標に近づくとか、もっと強く好きなものを意識できるようになる、といったイメージです。

こういう形での「幸せの定義」は、その人の生き方の指針、価値観のようなもの、と言えるかもしれません。
もし、人に訊ねたら、人の数だけいろいろな答えが出てくるかもしれないし、大まかな方向性に分かれるのかもしれません。

そして、もっと小刻みにできる「幸せの定義」もあるのではないか、と思います。
人生のずっと先にあるような幸せではなく、<今>目の前にあるような幸せです。

遠くの幸せを考えることは、長いスパンで自分の道を生きる拠りどころとなるでしょうし、目の前の幸せに気づくことは、日々の心の栄養のようなものではないかと思います。

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「幸せ」という言葉は、私にとって、何か正面から使うのが気恥ずかしいような言葉でもあるのですが、こうして考え始めると、このキーワードでいろいろなことが発見できそうな気がしています。
posted by サトウマリコ at 00:37| Comment(0) | コラム

2012年01月20日

「幸せ」の定義・3

〜「幸せ」を感じる力〜


「幸せ」という言葉が出てきた一番古い記憶は、幼稚園の頃です。

その時は、母と一緒に部屋にいて、母は洗濯物をたたむか、アイロンをかけるか、といった作業をしていたように思います。私はその近くでオモチャで遊んでいました。

母がふと、私に「おまえは今幸せ?」と訊ねてきました。

幼稚園児に訊ねる言葉としては、あまりにシビアなものに私自身は感じたように思います。
そして、そんなふうに子供に訊く母は、今幸せではないのではないか、などと漠然とですが、邪推したような気がします。
なんと答えたのか覚えていませんが、多分、そう訊かれたら「うん」と答えるしかなかっただろうな、と思います。

母はもう覚えていないでしょうし、どういうつもりで訊いた言葉なのか今となってはわかりません。もしかすると、ほんの軽い気持ちだったかもしれません。


次に思い出すのは、中学生の時の先生の言葉です。
学級担任ではなく、国語の教科担任をしてくださっていて、学年で一番厳しい先生でした。
先生方の中では比較的ご年配の女性の先生です。

「あのね、今、どん底だと思っている人が、あなたたちの中にはいるかもしれない。でもね、どん底だってことは、あとは上がるしかないのよ。だから、これから必ず良くなっていくのよ」

こんなことを、もう少し長く、熱く語られていた記憶があります。直接、幸せという言葉は使わなかったかもしれません。でも、この話は私の中では、幸せというテーマと同然に感じられるのです。

中学生の頃というのは、小学校とも高校とも違い、数年での変化がかなり著しい時期です。体も心も不安定な生徒を教育するのは、簡単なことではないと今となっては容易に想像がつきます。
ただ、そういった理由で必然性があったのか、生徒の目線からの記憶としては、来る日も来る日も、いろんな場面で、いろんな先生方が「お説教」していた、という印象が強いのです。
そして、何故か、記憶に残っているのは、お説教の内容ではなく、先生方の叱責する表情や口調など、そんなものばかり。

なので、はっきりと覚えているこの先生の言葉は、かなり私にとっては印象が深かったものだったと思います。

この先生は、一番厳しく、そして一番優しかったのではないか、と今は思います。


いろんなことに言えると思いますが、苦しみを経験して、初めて普段どれだけ幸せだったか、ということに気づく、ということがあります。

体のどこか一部が痛くなった……例えそれが、命に差しさわりのない虫歯の痛みだったとしても、「痛くない」ことへのありがたみを感じることでしょう。

その考え方でいくと、辛い思いを沢山した人ほど、幸せを感じる力も備わっている、といえるかもしれません。少なくとも、幼稚園児の私は、自分が幸せかどうかなんて、「わからない」としか感じようがなかったはずです。でも、今の自分は、少なくともしっかりと「幸せ」と感じる力を持っています。何十年を生きていると、さすがに「辛い」ことも経験できるので……。


実際には、辛い思いをすると、哀しみや怒りが生まれると思います。誰かにぶつけたり、でもどうぶつけていいかわからなかったり、更には憎んだり、妬んだり、絶望したり、多くの感情を経験するでしょう。

そこを通らずに、ただ「辛い思いをしたんだから、無いものではなく、今あるものに目を向けて幸せを感じましょう」とは言いたくないのです。

ちゃんと、自分の感情に向き合って向き合って、そこから何かを得られたなら、次には心に平和が訪れるものだと、そう思いたいのです。

こうして書いていることの背景に、頭の中では心理学の理論はもちろんちらついていますが、どちらかというと、自分の感覚を頼りにしているところが大きいです。

そして何か大きな経験をして、幸せをひとつでも感じられるようになったら、今度は、一つひとつ対極的な経験をしなくても、「今」の幸せを感じる力が敏感になっていくのでは、とも感じています。対極的というのは、例えば「病気と健康」「孤独と愛情」「束縛と自由」「生と死」などです。


国語の先生が目の前の中学生たちに伝えたかったこと……昔の自分は、噛みしめるようにその言葉を聴いていましたが、今の自分はその時の先生の心境に近づいてきているかもしれません。


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posted by サトウマリコ at 00:21| Comment(2) | コラム

2012年01月19日

「幸せ」の定義・2

〜「言葉」の奥にあるもの〜

「幸せ」について何を書こう、と思いを巡らせながら過ごしていたら、一日気分がよいのです。
たまたまかもしれませんが、嫌なことを思い浮かべるよりは、少しでも「幸せ」な記憶を引っ張り出そうとしているのだから、不思議なことではないのかもしれません。

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例えば、「私は楽しいことをしている時が幸せ!」と言う人と、「誰かの役に立っていると思える時が幸せ」と言う人がいたとして、その二人に対してどのようなイメージを持つでしょうか。

「楽しいこと……」の人は気楽な感じ、「人の役に……」の人は真面目な感じ、そんなふうに思う人がいるかもしれません。
また、どちらが自分の感覚に近いかによって、親しみを感じたり、反発を覚えるということもあるかもしれません。


けれど、考えてみると、この二つの言葉だけで、その<人となり>を知るのは実は難しいことだと思います。
こうして、文章を読んで感じることは、おそらく読んでいる人自身が持つ経験や価値観を多く反映した想像に基づいているのではないでしょうか。


楽しいことを意識して追い求めることで、仲間が増え、多くの人に何かを与えることができるかもしれません。逆に、自分だけの楽しみを追求し、自己中心になる可能性もあります。

人の役に立とうと考えるだけで実際には行動が狭まってしまうこともあるでしょうし、逆に、本気で取り組んで、本当に人の役に立っている人もいると思います。

言葉と実像の間には距離があります。
そして、実像すら、ひとくくりにすることは難しい、あいまいなものではないかと思うのです。
見る人によって、状況によって、記憶の長さによって……随分と違うような気がします。


これから時々、「幸せ」をテーマにいろいろな角度から考えてみたいと思っています。
多くは私という個人の見方や記憶を頼りに、また時には誰かの話を聞いてみたいと思っています。


今日の私の幸せは、「読んでくださる人を思い浮かべながら、文章を書くことの幸せ」を感じられることです。
posted by サトウマリコ at 00:23| Comment(0) | コラム

2012年01月17日

「幸せ」の定義・1

〜「幸せ」って何?〜


先日我が家で小さなホームパーティをしました。

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6月にあるご夫妻を見送りました。そのお二人との思いがけず早い再会でした。

3月に、釣具店を営んでいた陸前高田市で、津波に遭い、九死に一生を得たお二人は、しばらくの間盛岡市の温泉宿「愛真館」で避難生活を送り、やがてカナダへと旅立っていきました。

ちなみに、そのことに少しふれたお話をこのブログで6月22日に紹介しています。
http://satoblog.sblo.jp/archives/20110622-1.html

盛岡に滞在中、3度ほどお会いしました。
夫同士が旧知の仲という関係でしたが、いつも会う時はお互い夫婦そろって、和やかに過ごさせてもらいました。
一度は家へも泊まってもらい、共にした時間は短くはなかったと思います。


震災の時のこと、たわいもないこと、いろんな話をしながら、お互いの夫婦が目指す理想の生活って何? どちらからともなくそんな質問がでました。

その時のご夫妻の答えは、「優雅な生活」。
そして、その生活を目指す一歩として、震災前から描いていた通り、外国へと旅立っていったのです。
私たちは、家に眠っていた少し年季のはいったスーツケースをお貸ししたのです。


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今回は、一時帰国ということで、長い滞在ではありませんが、予定より早くスーツケースは私たちのもとへと返ってきました。旧式のものですが、少なからずお役に立てたようです。
貼られたシールが誇らしげに見えます。


持ち寄ってくださったおいしい手料理をいただきながら、今回もゆっくりと時間を共有しました。
暮らしやすいと言われている、バンクーバーで体験したことから感じたこと、移動後のサンディエゴの話……なるほど、実際に行ってみないとわからないものだな、と新鮮な話ばかりです。

そしてまた、ご夫妻は私たちに聞きました。

行ってみたい国はどこ?

そもそも、どこかへ行こう、行きたい、という将来を描いていなかった私は歯切れの良い答えができません。逆に問い返すと、二人はそろって「楽しいところ!」「そして食べ物がおいしいところ!」と答えました。

ちなみに、最初の質問…どんな生活が理想か? に対する私たちの答えは、「人の役に立つことをしたい」でした。

そして「楽しいところ」という答えを受けて、私が考えたことは、「楽しい」ってなんだろう? でした。

多分、少なくとも私にとって、「楽しい」は盛岡を離れなければ経験できないこととは限らないような気がします。

けれど、今明確に、これをしていれば「楽しい!」「幸せ!」と結構大きな尺度で思えるものがないのも確かです。


私たち夫婦は、相手のご夫婦と対照的な価値観を持って、対照的な行動をとっているようにも思えます。

でも、お互いの心地よい距離感が、その違いを興味深いものに感じさせてくれるのです。

「楽しい」って何?
「幸せ」って何?

これまでも、時々、人生で顔を出したことがある問が、また自分の胸に拡がり始めました。

「幸せ」を定義づけすることはしません。

ただ、いろんな「幸せの定義」について考えてみたくなったのです。


ちなみに、今日、外での仕事が終わったあと、夜空を見上げました。そこは高台で盛岡でも星がとても綺麗に見える場所です。
オリオン座を見つけました。
私はオリオン座が子供の頃から好きなのです。
ふっと一瞬感情が走りました。その時、私は「幸せ」を感じたかもしれません。(続く)
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2011年11月10日

クモの巣・9

「<つながり>と<孤独>」

最近、クモの巣らしいクモの巣を見てから、連想したことは「ネットワーク」という言葉でした。

人は、誰かと繋がりながら生きているなあ、とか。
何かをしようとしたら、自分ひとりではなく、心をひとつにできる相手を見つけて網目のように組織をつくるといいのかなあ、とか、そんなイメージです。

同時に、目に入ったのは、クモの姿。

クモの巣は点と線のつながりに見えるけれど、そこにいるクモは孤独でした。

たった一匹で網を張り、孤独に獲物を待って生きているように見えます。
繁殖のためにはそれなりのしくみはあるのでしょうが、普段見ているクモは群れていません。

少し考え直しました。

「心をひとつに」することは可能なのでしょうか。

少なくとも簡単にはできることではないように思います。

家族や職場や仲間など、何かに所属していることは多いかもしれませんが、心は「ひとつ」というよりも、「ゆるやかに」繋がっているような気がします。

あまり相手に求めすぎると、失望することさえあります。


子育てで悩んでいる「親」がいます。

子育て以外のことで悩んでいる「親」もいます。

「子ども」は、「親」というものは自分にとって絶対的に味方であってほしい、自分を愛するべきだ、と思っていたりします。

親子の形にはいろいろあるでしょうが、その親子ですら、相手の心は自分の理想通りには在りません。

そのことに気づくことは、寂しいことでもあるけれど、本当に自分の足で立つ時期に来ているのかもしれません。

他人とは尚更です。

心が重なることは、嬉しいことかもしれませんが、求めすぎるとつらくなることがあります。

そもそも人が孤独であるということに気づくことは、人とのつながりを上手に作っていくための大切な通過点なのかもしれません。



さて、何週間もの間、クモの巣を眺めながら、私は心の中で沢山の対話をしてしまいました。
今日のクモは……車を降りて確かめると、糸の一本も見当たりませんでした。
また、そのうちひょっこり顔を出すのでしょうか。

私の心の中での呟きも、またいつか形を変えて書いていきたいと思います。<了>
posted by サトウマリコ at 21:30| Comment(0) | コラム

2011年11月04日

クモの巣・8

「『本領発揮』か?」

今朝、車に乗る時に、今までになく立派な巣が目に入りました。

これまでの巣がはっきりとした形を成さない断片だとしたら、多角形のいかにも「網を張っている」風情の巣です。しかも、端はしっかりとウィンドウを避けて、ウィンドウのカバーと、ドア本体と、ミラーに繋がれているので、窓を開けても壊れることはありません。どうして、クモにこのようなことができるのでしょう。
なんだか少し興奮して、また信号待ちの時にじっくりとその幾何学的な模様を確認するように眺めました。

大きさは大体A4判の書類よりひと回り大きいくらいでしょうか。
最初こそ、今まで見たことのなかったそのクモの巣らしい巣に興奮しましたが、よく見ると、放射線状に伸びる糸の間隔が不揃いです。これは、何か意図があるのか、それともアバウトなのかわかりませんが、その完璧ではないところが妙に心をくすぐります。

クモとの距離感をとっていたとはいえ、付き合いも長くなってくると、どうも身内のような感覚がでてきます。
帰りには、ガソリンスタンドに寄りましたが、スタンドのお兄さんとのやりとりで、巣が壊れてしまわないよう、窓を開けず、一回毎にドアを開けてやりとりするほど、気を使ってしまいました。

「私もね、今ちょっと挑戦していることがあるんだよね」
心の中で、そんな呟きが生まれました。
よくわかりませんが、クモの巣を見ていたら、そう云いたくなったのです。
実際今いくつかのことに挑戦しています。
クモは多分、まだ本領を発揮していないような、そんな気がしています。
私も多分、まだこれからも成長できるのではないか、という気がしています。

時々、人生があと何年くらい続くか、と考えることがあります。
例えば、あと40年、生きるとしたら、その時、日本はどうなっているだろう、と考えると同時に、自分や家族はどうなっているだろう、と思います。
どちらかというと、不安な気持ちになります。

逆に、あと10年とか、20年だとしたら、と考えると、気持ちがさっぱりします。
本当のところ、人生がいつまで続くのかは誰にもわからないでしょうが、今の自分は、ずっと先の未来の心配をし続けながら生きるよりも、限られた期間でやりたいことをやる、という生き方の方が性に合っているように感じます。


動物を見ていると、ほとんどの場合、「今この瞬間」を生きているように思えます。それはそれで趣があるように感じます。

でも、今日クモの巣を見てふと気がつきました。
クモの生き方には「時間」が組み込まれているな、と。


夜、再び車に乗ると、真ん中に大きな黒い影。獲物かと思ったら、クモそのものでした。
なかなか獲物がかかっているところは見かけません。
posted by サトウマリコ at 23:18| Comment(0) | コラム

2011年10月29日

クモの巣・7

「動かない、強く見える」

数日、クモを見かけませんでした。いつもの位置にある糸を確かめても、相変わらず心細そうなものがふわっとあるばかり。
このところの寒さで……と嫌な想像もしましたが、そればかりは何ともできません。

すると昨夜、すっかり暗くなってから車に乗り込もうとした時、クモがいることに気づきました。
家の窓から漏れる明かりに照らされて、糸の真ん中あたりに丸いものがしっかり目に映ったのです。

運転席に座ってから、窓越しに顔を近づけてクモの様子を見てみました。

逆光に浮かぶクモの姿は、ピクリとも動きません。
いつか昼に走っている車から見たように、手足をもがくようなしぐさもしません。
それなのに、なぜかその姿から力強い生命力のようなものが感じられます。
まるで、暗くなった今こそが自分の得意な時間なのだとでもいっているように。


インクの染みの抽象的な形を見て、何に見えるか?という臨床で使われる心理テストをご存知の方がいると思います。
同じ形を見ても、見る人によって何に見えるか違ってきます。
投影法と呼ばれるもののひとつです。


日常でも、自分の内面は見えにくいけれど、何か別のものに触れたときに、自分というものが見えてくることがあります。
それは他人の存在そのものであったり、出来事であったり、物などであったりします。


投影という文字通り、光に映し出されたクモの影は、動かない。

この状態を見て感じることも人によるのだと思います。

昨夜の自分には、動かないクモが、強く勇ましく、かっこいいもののように見えました。
「動じない」ことに憧れているのかもしれません。
posted by サトウマリコ at 12:21| Comment(0) | コラム

2011年10月25日

クモの巣・6


「そこにあるのに見えないもの」

今日は珍しく車に乗る時に、クモの巣の存在に気づきました。
小降りの雨の中、水滴が着いてキラキラと光っていたのです。

最初見た時には「あれ、ちょっと巣を立派にしたのかな?」と思いました。
思っていたよりもちゃんとハンモックみたいな形をしていたからです。
透明な粒々が綺麗で、これはいいかも、と試しに写真を撮ってみました。

それなりのカメラで、きちんとした撮り方をすれば写るのだと思いますが、私のカメラで撮った画面は、まるでクモの巣など最初からないようにしか写りませんでした。


車を運転しつつ、ぼんやりと考えました。

もしかすると、クモの巣が「ちゃんとしていない」と思っていたのは、そんなふうに見えていただけで、最初から、今日見たような形だったのかもしれません。
透明だから見えにくく、水滴が着いて、初めてはっきりと姿を現した…そういうことだった可能性もあります。


「そこにあったのに、見えていなかったモノ。それが見えた瞬間」

そんな感覚がどこかであったような気がしました。


例えば、今、目の前にある看板。普段は見えていても意識はしていないから、存在に気づいていませんでした。
人は、見たいものだけを見て、見たくないものは見ない。そんな真理はあると思います。
でも、その感覚とは少し違うのです。


立体視できる3Dアートが浮き上がって見えたとき。
囲碁の対戦中、終盤に差し掛かって、どちらかの陣地がふいに現れたとき。
ほっとして初めて自分の本当の感情が出てきたとき。
大人になって、若かった頃には見えなかったことに気づいたとき。

あれこれ考えてみましたが、どれも少し疑問符がつく感じがしました。


そして、今、コラムを書く段になって、今更のように気がつきました。
「私は、クモの巣を毎日見ながら、実はちゃんと見ていなかったんだなあ」と思いかけていましたが、そもそもクモの巣は透明に近いのだし、できるだけ他の生き物には見えないほうが、本来の役割を果たしやすいはず。だから、見えなくて正解なのです。
そういう巣を、このクモが作っていたのだとすれば。


私の感情は、以前よりはっきりとしてきました。モヤモヤしていたものが何だったのか、少しずつ姿を現してきたような気がします。
モヤモヤには大抵の場合、理由があるんだろうな、と今日は思えます。そして、はっきり見えないということにも、守っている何かがある、そんな理由があるのかもしれません。
posted by サトウマリコ at 20:28| Comment(0) | コラム

2011年10月24日

クモの巣・5

今日は、市内まで車を運転しました。車に乗る時は、相変わらずクモのことを忘れていて、走り出して信号待ちになったりすると、ふと運転席の脇を観察する癖ができてしまったようです。

今日のクモ。
まず、巣のほうは、随分と線が細い。量も少ない。
「まじめに作ってます?」と訊きたくなるくらい、気づきにくい巣です。


3日くらい前、道を歩いていた時のこと。
歩道からでも目につくような目立つクモの巣を発見しました。
それはもう、「うわ、クモの巣!」といやいやながらでも取り払いたくなるようなタイプのものでした。
糸が太いのか、糸の本数が多いのか、平面的な幾何学模様ではなくて、厚みがあって白い色を感じさせる巣。大きな黒っぽい何かがいくつか引っかかっています。そして、真ん中に、堂々と大きなクモが居座っています。

場所はというと、人の住んでいない荒れた家の玄関口。あたりにも草が伸びていて、クモにとっては、格好の場所ではないかと「場所選びのセンス」について、私の車に住んでいるクモとつい比較してしまいました。

しかし、場所選びのセンスはあくまでも「クモにとっては」というのが条件としてあって、「私としては」、なぜか車のミラーなんかに住んでしまうクモに好感を持ってしまうのです。


その3日前に見た巣を思い出しながら、運転席から、確認するようにミラーから伸びた糸を眺めてみました。ドアを開け閉めしたり、ウィンドウを降ろしても影響の無い張り方は、如才ない作り、とは思います。でも、こんなに少ない糸で、大丈夫なのか、と疑問がむくむくとわいてきます。

何度目かの信号。クモが顔を出してきました。まるで私に挨拶しにきたようだ、と思えるタイミングです。
クモは、どこから糸をだすのか? 他にもいろいろと調べればわかるのでしょうが、今は敢えてクモの生態をネットで検索しないことにしています。
とにかく、クモは、ミラーの裏から出てくると、糸を吐き始めました。
いつも見ているのよりも、白く太い…獲物が引っかかりやすそうに見える糸を数本真直ぐに張ったのです。

もちろん私は、運転中なので、ずっとクモを見ていたわけではありません。

次に見た時、クモは、先ほど吐いた糸をしまいました。本当に、しまったのです。どうにかして体内に戻したのでしょうか。再び、クモの巣は、細く華奢な作りに戻り、クモもすっとミラーの裏に引っ込んでしまいました。


人間は、時に動物の生き方を見て、感動し、学ぶことさえあります。
何も考えず、何も持たず、「今」だけを生きる動物を羨むことも敬うこともあるかもしれません。
私は、クモを見て、何を学びたいと欲しているのだろう、と考えました。多分、人は何かから学ぶ時、半分は自分でも気づいていることもあるのではないでしょうか。学びたいと思っている…つかみたくて、つかめそうで、つかめない、そんな時、何かから学ぶ準備ができているのではないのでしょうか。

とりあえず、今日のクモは、私に「やろうと思えばできるんだよ」というところを見せてくれたように映りました。クモが敢えてしている行動のわけを知りたいのか、その秘密は知らないままにしておきたいのか、どちらの気持ちもありますが、流れにまかせてみたいと思います。
クモとの距離感が、少しずつ縮まっていく感じがしています。
posted by サトウマリコ at 23:46| Comment(0) | コラム

2011年10月21日

クモの巣・4

本当のところ、このクモの巣の話を書き始めた頃には、私の「晴れ間の少ない気分」は大分変わってきていました。
のしかかるような重たい何かはやっと変化をし始めたのだと、少しですが確信を持てるようになりつつありました。

クモの巣に例えると、生きていくための「餌」となるものが、引っかかり始めたのです。
それは、ほんのちょっとした手応えであったり、人と人との繋がりで掛け合った言葉の数々であったり、以前自分がした行動に対して頂戴した、自分を後押ししてくれるようなもったいないような出来事でした。

そういった「出来事」が私の気分を変えていくのを感じつつ、少しの違和感も持ち続けていました。

こうして、偶然のようにふりかかる出来事によってしか、自分の道は切り開けないのだろうか? というコントロール感の無さかもしれません。「運のようなもの」に振り回される自分が情けなくもありました。

同時に「出来事がどうあっても動じない」ということと、「感情を麻痺させ押さえ込むこと」とは別のものではないか、と意識して考えるようになりました。



クモの巣の話を書き始めて2日目、車に乗ると、クモもクモの巣も、その存在を見つけることができませんでした。
私が書いたから、クモはどこかに行ってしまったのか、それとも、もっとよい場所を求めて移動したのか、それはわかりようもないことだけれど、少し寂しく感じていました。

そうしたら、今日、車に乗った時、いたのです。
まだクモは私の車のドアミラーに住んでいました。

信号待ちをしていると、ドアの付近にうごめくクモを発見。そして、車は走り出しているというのに巣作りを始めました。
風に揺れながら、糸をたぐって移動するクモ。

心なしか前より大きくなったようにも見えます。

再び信号で止まり、しげしげと見つめました。
最初は、簡単に風圧で飛んでいくだろうと思っていたそのクモの巣と、クモの様子を。

クモの糸の両端は、しっかりと車体にくっついています。きっと粘りがあるのでしょう。
そして、決してピンとは張っていません。ゆるく遊びがあります。風に吹かれても、ゆらゆらと揺れて、ちぎれることも、飛ばされることもないのです。
ぶらさがっているクモは手足を動かし余裕さえありそうです。
この糸でできた巣なら、風に吹かれても簡単には飛ばされないのだと、改めて理解しました。

時速50キロのスピードのなか、クモはやがてミラーの後ろへ隠れてしまいました。
posted by サトウマリコ at 19:55| Comment(4) | コラム

2011年10月20日

クモの巣・3

心理学や精神医学を研究するということは、目に見えないものをいかに普遍的なものとして共有できるようにするか、という大変さがあると思います。実験で証明できる類のものならまだしも、臨床心理学となると、目指すところは、いかにその人にとって心の状態がよくなるか、ということになるので、レントゲンのように映すわけにもいかず、一人ひとりの個性があるなかでどう深めていくか、ということになります。

有名な臨床家たちがそんな時「自分自身の心の動き」に着目していったのは、自然なことだと思います。実感できるものは、自分の心しかないので、そこから何かを予想し他にも応用していく、あるいは他の研究者が次々と進化させていく、といった積み重ねがありました。

研究者と並べて考えるつもりはありませんが、私自身も、心理カウンセラーという仕事をしていて、人の心の動きへの興味はつきません。
人の心や感情について、想像力を膨らませる時に、規準となるのは自分自身が体験してきた感情になります。

そう考えると、いつも元気で明るいことだけが自然なこととは思わず、むしろ、ネガティブな感情とも時間をかけてつきあっていくことが、糧になることも多いと感じています。


件のクモの巣は、ちらりと見かける程度のつきあいですが、そのクモの生活を勝手に想像してしまいました。

もし、クモの生活をここのところの自分の心の動きと置き換えると、張り巡らした巣には、ゴミや木の葉のかけらなど、役に立たなかったり、不快なものばかりが、立て続けにかかる、そんな感じでしょうか。

何かが引っかかった、軽い振動が合図となって見に行けば、そんなものばかり。
たまには、そんなこともあるでしょうが、早くエサにありつかないと、命にかかわります。

それなのに、クモにできることは、巣を張って、あとは「待つこと」だけ。それがクモの生き方なのです。

人間もそうなのでしょうか。努力してチャンスを作って待っていても、未来に希望を持っていても、時々予想もつかない<出来事>が起きて、あっけなく自分から何かを奪っていくことがあります。

それは、生きるための財産かもしれないし、もっと他の大切なモノかもしれないし、自分の中にある自分を保つための何か、かもしれません。
posted by サトウマリコ at 18:47| Comment(0) | コラム

2011年10月19日

クモの巣・2

最近の自分の気持ちを、「晴れ間が少なかった」という表現で前回並べましたが、実際に自分がどのうな「行動」をしていたかというと、基本的には普段と変わりありませんでした。

やるべきことをやり、仕事の合間には、歌の発表会に向けて毎日お腹から声を出して歌を歌っていたほどです。

そうしていれば、気持ちも次第に落ち着いていくのか、と思いながら過ごしていました。

でも、しばらくの間は、小さな石につまづく、そんな感じの「ちょっとした面白くないこと」が続きました。
その度に、心に薄っすらとかかっていた雲が厚く重くなっていくように感じました。

基盤を持って、同じように生活しているのに、日々の「出来事」は私の心をちょっとずつ翻弄します。
職業柄、自分に起こっていることを客観的に捉えることはできていても、感情は動きます。
「頭でわかっていても・・・」という感じです。

心は少し重たい感じ、体もそうだったかもしれません。そんな時間の中でも、誠意をこめて仕事をし、プライベートでは時に笑い、行動的な自分も確かにいました。
もちろん、休める時にはしっかり休みました。


今日はこれから仕事のため、車ででかけます。
相変わらず、クモが私の車に住んでいるなら、秋晴れのドライブを一緒にすることになりますが、クモにはそんなことは関係ないのでしょうか。
posted by サトウマリコ at 12:31| Comment(0) | コラム

2011年10月18日

クモの巣

「しないければならないこと」が沢山あって、「したいこと」ができない毎日が続くとか、
何かをしたいのに、頭の中だけでぐるぐる考えて、行動に移せない自分にやきもきしたりとか、
行動に移してみても成果に繋がらないことの繰り返しに疲れてしまったりだとか。
毎日を必死で生きているつもりなのに、なんだか心が晴れない日々が続くことってないでしょうか。

何か大きな波に乗っていると思える時もあれば、突然放り出されたり、小さな波に翻弄されたり、一見波のない穏やかな日々のようでいて、じっと落ち着いていられない自分の心に振り回されたりすることもあるかもしれません。

最近の自分の気持ちをなんとか言葉にしてみると、今書いたような気持ちでいる自分がいたり、そんな状態なのかな、といろんな人の気持ちを想像してみたり、どちらにしろ「晴れ間」は少なかったように思います。


大体時を同じくして、とても小さな出来事なのですが、私の車に「おうち」を作った生き物がいました。
それはクモ。名前はわかりませんが、サイコロくらいの大きさの灰色の普通のクモです。

私が運転席に座ると、ちょうどすぐ脇のサイドミラーから出発して、運転席側のドアにかけて斜めに基礎を張り、ちょっとずつ円を描くように巣を作っていました。
気づいたのはひと月くらい前だと思います。

最初は、車を走らせたら残念だけど風圧でクモもクモの巣も吹き飛んでしまうだろう、と思い、敢えて取り払おうとはしませんでした。

そしてクモのことはすぐに忘れてしまったのですが、再び車に乗るとやはりそこに巣があります。
クモは飛んでいなかったらしいのです。

けれど、巣自体は一向に「立派」にはなりません。無くなりはしないけれど、おそらく吹き飛ばされたりして安定した家ではなさそう。その度に作り直しているようです。
で、ある時、ミラーのカバーと鏡の隙間に出入りしているクモを目撃しました。どうやらミラーの中がクモの隠れ場らしいのです。

時々クモの存在を見かけつつ、放っておきました。

ある日、車を点検に出すことになりました。
点検をしてもらうと、車は最後に洗車されピカピカになって帰ってくるはずです。
点検に向う途中、そのことに気がつきましたが、私はやはり何もしませんでした。
洗車機を想像すると、さすがに今日でクモともお別れかもしれない、とは思いましたが…。

数日後、車に乗ると、相変わらずいつものようにクモの巣があるのです。
あまり立派な巣ではないので、乗るときには気づかず、降りるときには忘れている。
私が発車で左右を確認する時だけ、その存在を思います。

クモは、洗車も切り抜けたらしいです。

先ほど車に乗った時、できたてのような綺麗な幾何学模様の巣がありました。あまり大胆ではない作りなので、不快に思わずそのままにしてきました。

クモという生き物は冬にはどうしているのでしょうか。
私の車に住むクモはこれからどうなるのでしょうか。
でも、クモはそんなことを考えたりはしていないのでしょうね。

クモのこと、いつもすぐに忘れてしまうので、忘れないうちに書き留めておきました。
posted by サトウマリコ at 12:23| Comment(0) | コラム