2015年08月06日

守るべきものを守るということ

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年々夏の暑さが増しているのは、気のせいかな、と思ったりしていましたが、気象データなどの情報をみるとやはり気のせいではないようです。

全国的に(地球規模で)暑さが厳しい折、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

久しぶりの記事になりますが、前回近況報告をした後、私の方はおかげさまでカウンセリングの活動を中心に充実した日々を過ごさせていただいております。

こう書くと、忙しくしているようなイメージがわくかもしれませんが、無理をして自分自身が辛くなり、カウンセリングに影響がでてしまうということがないように自己管理することも仕事のうちと考えていますので、なるべくできる範囲でリズムを整えた生活を心がけています。

それにしても「暑さ」など自然現象には誰にも文句を言えるものではないので、上手く付き合う方法を持っていたいものです。ストレスの要因は、人間関係などが多いと思われがちですが、寒暖など身体に影響を及ぼす環境も立派なストレスになります。

いくら暑くても、やっぱり夏が好き!といろいろな行事に出かけていらっしゃる方々もお見かけしますし、食欲がなくバテ気味、できれば冷房のあるところから出たくない、という方もいらっしゃると思います。あるいは、早い時期から暑さに慣れる体づくりをしたり、暑さ対策グッズを揃えたりして少しでも快適に過ごせる工夫をされる方もいらっしゃいますね。

もちろん個人個人の体調面での差があるので一概には言えませんが、こういった行動の違いはその人の心の持ち方の特徴も見えてくることがあります。

多少不安があっても、楽しい面や充実感に注目するか、何事も慎重に考え首尾よく物事を進めるか……。
どれが正しいということではなく、どんな自分でも人と比べて負い目を感じずに過ごしていけるとよいな、と思います。

問題につきあたった時、正面から向き合う・取り組むことも一つの方法ですし、時には離れる(逃げる)という判断も同じくらい大切なことです。

それは、一番大切なものを守るためのこと。

そして、大変な時期を乗り切って、力が出せる時のために、じっくりとマイペースでこっそり心の貯金を蓄えましょう。
そして、それでも自分の力だけでは乗り切るのが難しいと思う時は、誰かに話を聞いてもらうことも「自分の力」のうちのひとつだということを忘れないでくださいね。


ちなみに暑さに関しての私の態度は……、上に書いたものが半々くらいです。
今は、多少の罪悪感を感じながら、エアコンの下でPCに向かって仕事をしています(^-^;)



カウンセリングの状況について、現在、タイミングにもよりますが、若干予約日までに時間がかかることがあります(1週間〜2週間)。このあたりは、カウンセリングを継続している方の人数によって変動しますので、ご了承いただければと思います。よろしくお願いいたします。



posted by サトウマリコ at 13:30| Comment(0) | ココロ

2014年06月19日

自分らしさ

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スポーツ選手の試合終了後のインタビューを聞いていると、よく「自分の○○ができた(できなかった)」という言葉を耳にします。

たとえば、「自分の滑りができました(できませんでした)」「自分たちの野球ができたと思います(できなかったので悔しいです)」という具合です。

気をつけていると、ほとんどのスポーツでこの言葉を耳にしますし、スポーツでなくとも、何か自分の専門を持っている方は、この「自分の」というパフォーマンスや表現をとても大切に考えているように思います。

更にいうと、日々の生活の中でも、「自分らしさ」「自分探し」という言葉を耳にしますが、それも「自分の生き方」や「自分の好きなライフスタイル」といったように「自分の○○」を持っていたい、という欲求が多くの人にあるのではないかと思います。


私も、カウンセリングを始めた頃に、カウンセリングの師に指導を仰ぐ中で「自分がどういうスタイルでやっていいのかわからない」という意味のことを相談したところ、酷く叱られたような記憶があります。まだまだ「自分のカウンセリング」を語るような段階ではない、ということだったのだと思います。

今思うと、いろいろなタイプのカウンセラーを見る中で、自分はどのようなカウンセラーになりたいのだろう、という拠り所が欲しかったのだと思いますし、それは常に自問自答していくものだという気持ちは今も変わりありません。



「私の○○」と言い切れるということは、仕事でも趣味でも生活習慣でも、自信を持って、これが自分のやり方だ!と自分自身が納得できているということだと思います。

その域に到達するにはかなりの努力の積み重ねが必要な場合もあるでしょうし、逆に何もしなくとも「あるがまま」の自分を好きでいられる、認めていられる、ということでもあるのではないかと思います。


他の人と自分を比べることで、自分に自信がなくなってしまう時は、一度、この「私の○○」ってなんだろう、と考えてみることも大切かもしれません。

そして、「自分の○○」があると同時に、他人にも「自分の○○」があるということ、その「違い」を、どう受けとめ、どういう距離感を持つか、というコツをつかむことによって、気持ちが楽になったり、自分のよい所を更に引き出せたりするのではないか、と思うのです。



ところで「私のカウンセリング」ですが、その頃から大分経ちました。
経験の少なかった頃とは違い、時に「私はこれでいい」という感覚を持てることも多くなりました。
どういうことを指して「私のカウンセリング」というのか説明するには、専門的な部分が多いので省きますが、その中のひとつに「奇をてらわなくてよい」というものがあります。

これもたとえですが、「魔法のように」とか、「カリスマ」とか、「不思議な感じ」といったイメージではなく、利用者さんが知らなかった方法や答えがあるなら、私の知識を使って一緒に辿り着けるように、するべきことをする、ということです。

けれど、それで終わりではなく、本当にこれでいいのか、という気持ちも同時に持ち続けてカウンセラーとして成長し続けていきたいと思っています。


posted by サトウマリコ at 11:46| Comment(0) | ココロ

2012年11月18日

値引かない

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心理学の用語に、「ディスカウント」という言葉があります。
ディスカウントショップ、というのと同じ、意味は「値引く」ということ。

何を値引くかというと、値段ではなく、
たとえば、
<問題の大きさ>だったり、<問題の存在>であったり、<問題を解決する力>であったり、<その人自身の能力>であったりします。

もう少し、わかりやすくイメージすると、子供が本当は自分でできるのにどうせできないだろう、と先回りして親がやってしまうのは、子供の力をディスカウントしている、ということになります。

上司が部下を信頼できなくて、悪い面しか見つけられないのも、その部下の能力をディスカウントしていることになります。

どうせ、私には無理だ、というのも「自分自身を」ディスカウントしていることになります。


人は、相手より自分のほうが優れていると思いたかったり、危険を避けるために安全な道を選ぼうとする時などに、無意識のうちに相手や自分をディスカウントしてしまっているのかもしれないですね。

よく目を凝らしてみると、世の中にはたくさんの、ディスカウントがあるなあ、と思います。

もっと値引きしないで、ちゃんと自分や相手の価値を認めていれば、そんなことにはならないのに……と思うことが結構あります。

そういう私自身も、ディスカウント、しているかもしれません。
そのことについては、いつでも謙虚でいたいと思います。

ディスカウントをやめてみると、相手や自分を「肯定する」ということにつながるのではないかな、と思います。
悩んでいる自分も、落ち込んでいる自分も、合わない相手も……少なくとも<一生懸命生きている>ってことですよね。
posted by サトウマリコ at 00:04| Comment(0) | ココロ

2011年08月10日

距離感

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デジカメの調子がよくないのです。
いろいろ悪戦苦闘してみましたが、ぼんやりと、白っぽく映ります。購入して5年のつきあいなのですが、修理に出すか、もっと性能のよい新品を買うか考えています。
もしかすると、仕事も終盤にさしかかっているかも。そんな今まで数々の思い出を映してくれたカメラでとった…夏のひとこま。

着色料いっぱいとわかっていながら、ふと食べたくなったかき氷ですが、これはその時の気分にもよります。自分ひとりでさえ、気分によって食べたいものも変わるのですから、他人と食べたいものが「ビンゴ」になることってなかなかないのではないでしょうか。

考えてみると、誰かと一緒にテーブルを挟むことは、家庭でも家の外でもあると思います。
例えば、社員の食堂だったら、それぞれに食べたいものを頼む、ですむと思いますが、外食だとお店選びから始まります。
家庭だと、メニューを何にするか、しかも、一品だけではないので、人が多ければ多いほど、個人の好みや事情が違って、作る側としてもいろいろと思案すると思います。

自分が美味しいと思ったものは、他人も美味しいはず! とばかりに、勧めてくださる方がいます。
また、自分はそれほど食べたくなくても、せっかくだから口にする、という方もいます。

たまにならよいでしょうが、身近な人間関係では、頻度も高くなってくると、我慢は積み重なっていくと思います。
食べるという行為は、自分の体の中にものを入れることなので、あまり食にこだわらない人だとしても、何かしらの価値観が反映される行為だと思います。

と、食べ物から始まって、他人との共同生活・共同作業には、沢山のものごとを「すり合わせ」する場面があると思います。

自分が思うことと相手が思うことは違う、という距離感を忘れてしまうと、コミュニケーションでは、思わぬ躓きが起こることもあります。
その距離感には、少し余裕を持たせることを心掛けたいものです。

皆さんは、どんなアイスが好きでしょう?  …いえ、暑い夏にはどんな食べ物が食べたくなりますか?
posted by サトウマリコ at 11:57| Comment(2) | ココロ

2011年08月05日

見えないチカラ

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あるスポーツ選手が、被災地を訪れて、そのスポーツを使って被災した人たちに「元気をつたえたい」という企画を終えた後、全ての日程をこなしてすぐに体調不良に陥った、というニュースを聞きました。

詳しい情報はわかりませんが、ハードスケジュールなのは確かだったので、過労とともに、いろいろな気づかいからくる疲れが出たのかもしれません。

似たようなこと、何か大きな責任を果たした後に、どっと疲れを感じることは、私たちの日常でも起こることです。

今回は、そのイベントのニュースをこまめに見てその選手をよく観察していたのですが、「元気をつたえる」という想いが、よく伝わってくるものでした。
もちろん、どのような形でも、被災地を支援したいと訪れる方々は同じように暖かい思いをお持ちなのだと思います。
正直にいうと、私はその選手のファンなのでどうしても贔屓目に見てしまうのかもしれませんが、「本当に」元気をわけてくれたんだなあ、という感覚なのです。目に見えないけれど、その心と体から、沢山の人にパワーを送り出して、自分の分は今からっぽになってしまったのかなあ、とそれくらい見ていて感動するパフォーマンスでした。

最近、身近な人と話していて、なぜか一緒にいると疲れる人っているよね、という話になりました。
その人は、何も悪くないし決して嫌いなわけではないし、むしろ一緒にいて楽しいのだけれど、自分の体が疲れる、と。で、相手の人はとても元気。なんだかエネルギーの移動が見えないところで起こっているような気がする、という話です。
逆に、私は、先日ある方とお会いして、それまであまり体調がよくなかったのに、話しているうちに調子がよくなり、逆に相手がどうも疲れてきたような様子になったことがありました。

目に見えないことですから、あまり信憑性のない話です。


ただ、話は少しずれますが、人とコミュニケーションを取っていると、あまり意識していなくても、相手のしぐさや表情といったものから、なんらかの影響は受けていると思うのです。

自分が気づいていなくても、相手からいただいているものがある。
よく目を凝らせば、今まで見えていなかった相手の気持ちが見えてくることがあるかもしれません。

それから、時々、見えない相手の気持ちを想像してばかりいて、疲れてしまう場合もあります。
特に、マイナスにマイナスに想像してしまうと、自分の中に悪循環が起こってしまいます。

見えないチカラ、よいバランスを意識することが大切かな、と思います。
posted by サトウマリコ at 18:00| Comment(0) | ココロ

2011年07月16日

否定力・肯定力

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「震災」という大きな出来事によって、以前は遠くに感じていたいろいろな出来事・物事を、我が事として引きつけて考えるようになった方は、もしかすると多いのではないでしょうか。

私もニュースなどはなるべく目にするように気をつけています。特に、目の前に困っている人がいる、という事実を知りながら、遅々として進まない(ように見える)議論を見ていると、もどかしい気持ちになります。
政治や行政などの動向や言論を知っては、憤る人を沢山目にします。
それだけ、目前にせまる「生活の課題」が現実的なので、真剣なのだと思います。

「支援」をめぐる民間の団体や活動も活発ですが、そこでもおそらく多くの議論や話し合いが行われていると思います。

今更ながら、「話し合い」というのは、どうすれば一番早く建設的に進むのだろうか、と考えてしまいます。

ほとんどの人は、小学校の時の「学級会」を初めとして、何らかの「話し合い」の場に出席したことがあると思います。

大人になるにつれて、子供の頃よりも「話し合い」が難しくなっているようなイメージがあります。


大人は、子供よりも沢山の体験をしていて、一人ひとりの意見のバックボーンの違いが広がっています。

大人は、子供よりも沢山の言葉の使い方を知っていて、言葉の裏に別の意味があることがあります。

大人は、子供よりも沢山の経験を経て、怖いものが増えたり、逆にどうすれば自分の意見を通せるかという知識も多くあります。

大人は、子供よりも、しがらみや責任がいつの間にか増えて、自分の思い以外のことにも気を配りながら、生きています。


皆がそうとは限りませんが、例えば、そんなことが「話し合い」を難しくしているような気がします。


とても大切な話し合いの場である「国会」というものがありますが、時々見ると、白熱しているのですが、何かを「否定」することにやっきになっている、と思うことがあります。
そしてその相手は「否定」されないために、沢山の予防線をはっているように思います。

そうすると、何かを作り出すための話し合いのスピードは少し落ちるような気がします。

違う意見をいちいち「否定」していたら切りがない。
だからただ、相手の意見を否定しないで、聴いていたらいいのに。聴いたあとで、自分の意見をいったらいいのに。そうして皆のいろんな意見を出し尽くして、それから、問題と解決方法を話し合ったらいいのに……、と思うのですが、それは難しいことなのでしょうか。


人間は、結構「否定」に弱いです。
それが怖くて、それを避けるように行動したり、一度否定されたらなかなか立ち上がれなかったりします。

そして人間は、否定に弱いと同時に、簡単に自分や他人を否定してしまえるものだ、とも思います。

私も気づかないうちに、他人を否定してきたと思います。
今でも自分が真剣に向き合っているものだからこそ、自分とは考え方の違う他人を否定する、という気持ちになることがあります。

「それが人間だ」と肯定しつつ、「肯定された時の人間は、かなり力が湧く」とも思っていますので、もっと自分や他人を肯定しながら、持てる力をちゃんと使いたいと思います。そして、底力の出せる集団が増えていくように、と願っています。

「話し合い」についていえば、意見や考えが違うのは、当たり前。
相手の意見を黙って聞くのは、負けることではありません。
相手の意見を聞いて、自分の意見を言えばよいだけの話です。
違うからといって、焦って相手を否定しては、人間の英知という資源をひとつ無駄にする、そんな気がします。
posted by サトウマリコ at 15:29| Comment(2) | ココロ

2011年06月22日

幸せの伝播

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人は、時に自分の<気持ち>や<感情>を他人に伝えることがあります。例えば、友人同士の会話などでは素直に思ったことを口にできることも多いかもしれません。

なんとなく、の範囲なのですが、自分がこれまで聞いたり自分が言った言葉を思い浮かべると、もしかするとマイナスの感情を伝える言葉が多かったような気もします。
でも例えば「これいいね」とか「おいしいね」とかは自然に耳に入ってきていて、気にとめていないだけかもしれません。
「嬉しいね」、「楽しいね」は、本当に何か特別の時に聞く感じがします。
まして「今、すっごく幸せ!」という言葉を聞いたことは、あらためて思い返してみても、数えるくらいしかないような気がします。


なぜだろう、と考えてみると、これもまた予想ですが、自分が今幸せだと伝えることというのは、少し思い切りが必要なのではないのでしょうか。相手が幸せかどうかわからないのに、自分が「幸せ!」と伝えたところで、どう感じるかわからないからです。もしも、相手が口には出さないけれど、深く悩んでいたり、落ち込んでいたとしたら、幸せ自慢をしてしまうようで、申し訳ない、そんな遠慮がちな気持ちになるのかもしれません。

もうひとつ考えた理由は、人は本当に幸せだと思える瞬間そのものが、他の感情よりも少ないのではないか、ということです。
いつでも、何かしら悩みがある、そんな人は少なくないのかも、と思います。
今、特に問題がなかったとしても、先々のことを考えて、不安になったり心配になったりすることもあるかもしれません。
それから、子供の頃から、幸せというのは「努力する」「頑張る」などの代償と引き換えに、初めて手に入れることができるものだ、そんなふうな刷り込みを、いろいろな経験を通して学んできた、ということは考えられないでしょうか。

自分の胸に手をあてながら考えてみても、やはり何か自分が努力して結果が出る、という過程を経ることによって、初めて手に入れられるようなもの、そうしなければ手が届かないもの、というイメージがあります。
ただ、振り返ってみると、「ああ自分は今幸せだなあ」と思った時はあって、それは努力して手に入れたのか、と言われるとそうでもなかったりします。いろんな出来事の流れの中で、今自分がおかれている環境が「幸せ」だということに、ふと気づいた、そんな感じでした。
でも、やっぱり大声で「私は今幸せなんです!」と言える相手は、いなかった、というかあまり口にしてこなかったと思います。


ところで、どうしてこんなことを考えたか、というと、他人からあまり聞く機会がなかったこの「幸せ」という言葉を、最近聞いたのです。
その人は、本当に幸せそうに「幸せ」と言っています。

そうして気づいたことは、その言葉を聞いた自分も、ものすごく幸せな気分になれた、ということです。
堂々と「幸せだ」と発表することは、こんなに他人を気持ちよくさせるのだ、と実感しました。

一人でも身近な誰か、応援している誰かが幸せだと感じている、という事実は、自分の幸せの一部だと私は感じます。


今は特に、「こんな時に、喜んだり楽しんだり祝ったりしていいのか」という風潮もあるかもしれません。
もちろん、時や場所を考えて、相手を思いやる気持ちは大切だと思います。
でも、いつだって、世の中には、幸せを感じている人もいれば、その逆のことを感じている人も同時に存在しているはずです。

自分が応援したり関わったりしたとすれば、その相手に「すごく幸せです」と表現してもらえれば嬉しい気持ちになるでしょうし、仮に関わっていなくても、喜べる人はいると思います。
言わないことが気づかいになる場合もありますし、言うことが同じく気づかいになる場合もあるのだと思います。


これまで、もしかすると「幸せと思ってもいい時にそう思わなかった自分」や「幸せな時に素直にそのことを表現しなかった自分」がいたとしたら、その回数だけちょっと損したかな、そんな気分になりました。

そう思わせてくれた方は、ご縁があって、ここ数ヶ月で3回ほどお会いしてお話しできた方です。
快諾をいただきましたので、その方のブログを紹介します。

東日本大震災日記
http://takatasango.da-te.jp/

書いていらっしゃるのは、ご主人ですが、奥様とお二人で過ごされています。奥様もまた私の心に響く「何が幸せかは自分が決めることだと思う」という言葉をおっしゃった方です。

震災の日から、現在までのことが書かれています。
6月21日を最後に、避難場所だった内陸の温泉地を離れ、旅立たれるようです。
様々な想いを綴られていますので、震災にまつわる話も含めて、お読みになる方の感想はそれぞれだと思いますが、私としては、随所に出てくる「今幸せを噛みしめている」という言葉が心に響いたのです。お会いして直接お聞きしたこともあるので、特にそう感じるのかもしれません。


パワーは伝わりますね。不思議なものです。どこかで誰かが呟く「幸せ」も少しずつ広がっていきますように。
私も「幸せを感じる力」と、必ずしも言葉とは限りませんが「幸せを表現する力」を磨いていきたいと思います。
posted by サトウマリコ at 15:34| Comment(0) | ココロ

2011年03月08日

青い鳥の探し方

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モーリス・メーテルリンクという作家が書いた「青い鳥」という物語があります。
ストーリーは詳しく思い出せなくても、「幸せの青い鳥は実は身近なところにいた」という結末だけは、イメージできる方も多いのではないでしょうか。

ふと、この話が気になって、もう一度あらすじを調べてみました。
主人公の子供達が、青い鳥を探しにいろいろなところへ行って、青い鳥を見つけるのだけれど、時間が経つと色が変わってしまったりして、なかなか見けられません。最後に家に戻ると、飼っていたハトが実は青い鳥だったことがわかります。そして、その鳥を隣の家に住む病気の女の子に贈ります。けれど、最後に青い鳥は逃げていってしまいます。

著名人を含め、いろんな方がこの物語の意味を解釈をしているようで、幸せは「形」として手元に留まらせることができるものではないが、人間に希望や夢は必要なものだ、とか、死と生命の意味を表しているなど、ざっとネットで調べるとそんな解釈があることがわかりました。また、「青い鳥症候群」と称して、「理想の職場を求めて、職を転々とする人」について触れている文章もありました。


とりあえず、単純に「青い鳥は自分の近くにいる」ということについて、考えてみたいと思います。

「青い鳥」という言葉の表すものが、「幸せ」なのか、「生きる意味」なのか、「居心地のいい場所」なのか、「希望」なのか、判然としませんが、そういったイメージだと思います。それよりもう「青い鳥」と言ってしまったほうが、しっくりくるような気さえします。


で、その「青い鳥」は近くにいるのか?


私は、「いるかもしれないし、いないかもしれない」と思います。

このような言い回しは、カウンセリングの中でも使うことがあります。
未来のことがどうなるか? どちらともいえないからです。


例えば、「青い鳥はあなたの近くにいるはずですよ」と言われたら、問題は解決するでしょうか?

他人の目から見て、青い鳥が近くにいるように見えたとしても、本人にとって、それが青い鳥に見えなければ意味がないわけです。
だから、メーテルリンクの物語と同じように、青い鳥を探している本人が、旅に出ていろんな経験をしたうえで、物を見る目が変ったことによって、これまで近くにあったものが「青い鳥」になる可能性はあります。
でもあくまでも、その<過程>を飛び越して、他人が指摘したことによって気づけるものではない、と思うのです。

例えば、大きな陸上のトラックがあったとして、スタート地点とゴール地点が一緒だと考えるとわかりやすいと思います。
ゴールと同じ場所に立っていても、走り出す前は、そこはゴールではないのです。
トラックを一周して初めて<そこ>がゴールになるわけです。

端的にいうと、この場合、私が伝えたいことは「青い鳥は自分で探さなければ意味がない」ということ。
そして、それを伝えたい相手は、青い鳥を探している人ではなく、どちらかというと探している人の近くにいる人に対してです。
「青い鳥はあなたの近くにいるんだよ」と叫ぶだけでは、きっと探している人の目に青い鳥が映ることはないと思います。だから、その人が鳥を探しに歩きだすことを、自分の経験だけをもとにして止めたりしないでほしいな、と思うのです。


もうひとつの可能性として、青い鳥は「近くにはいない」場合がある、とも思います。
いないなら、探したっていいじゃないか、と思うのです。
思い切って、探す旅にでて、見つかる場所が、今いる位置ではなく地球の裏側の可能性だって大いにあると思います。

ここで私が伝えたいことは、「必ずしも、身近なところで青い鳥がみつかるとは限らない」ということ。
伝えたい相手は、やはり、青い鳥を探している人の身近にいる人です。「あなたの近くをよく見れば、幸せはそこにあるのよ」ということは、自分にとって正解かもしれませんが、相手にとってそうでなければ、問題は解決しません。本気で、自分の青い鳥を探し求め、旅に出ようとしている人がそこにいるなら、その旅があきらかに苦難が待ち受けていそうな旅でも、「自分の旅」を全うするまで背中を見守ってあげてもいいのではないか、と思います。

どちらの場合も、また、探す人も見守る人も、忍耐のいることかもしれません。
posted by サトウマリコ at 23:05| Comment(0) | ココロ

2011年01月05日

未来のことを考える

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明けましておめでとうございます。
カウンセリングに来てくださっている方、ブログを読んでいただいている方、今年もどうぞよろしくお願いします。

年が明けると、皆さん心の中で目標を立てることが多いですね。
そんな未来に向けてイメージを膨らませている時間というのは、なかなかいいものだと私は思っています。

一昨年くらいは確かこのブログで、目標の立て方や継続するコツなどについて書いたような気がします。

とにかく「具体的に」イメージすること。
「一度止めても、またやり直せばよいこと」など……。

今年一回目のブログは、それをさらに細かく再分化しようかな、と一度は思ったのですが、逆に、「こだわらないこと」というのも大事かな、と考え直しました。
抽象的な目標でも、途中でくじけても、やり直しても、変更しても、それが「その人らしさ」「自分らしさ」であればいいかなあ、と。

私の場合ですが、仕事については、大体前の年の後半くらいからは、次の年のことについて、あれこれと計画を練り始めるので、本当にあれこれと事業候補は出てきていたのです。あとは、実際にどうするか、と決める段階です。
もしかすると「あれこれ」にはほとんど手をつけない、ということもあるかもしれません。
それは、後退や停滞、ということではなくて、もっと別の角度から仕事に繋がるものもあるのではないか、という、ちょっと視野を広げて考える感じです。

どうしても、心理学を専門分野として勉強していると、時々、臨床の現場とかけはなれてしまうことがある、つまり近視眼的になることがあると感じるのです。
もともと心理学は、人の心という目に見えない世界を扱うこと。
けれど、心理学以外にも人の心について考えてきた分野、近い分野は無数にあります。
どんな角度から、それらを勉強して、クライエントさんに接する時のバックボーンにするか、というのは無数にあります。

もちろん、いつでも基本はとても大事なのです。ただそれをある程度勉強したなら、次の段階も考える時期があるように思います。
もしピアノのレッスンなら、鍵盤に触れる、楽譜をみて曲の練習をしながらも、いろんなジャンルの演奏を聴くことも勉強になるかもしれません。
もし和食を追究するなら、多くの基礎を学びながら、たまにはイタリアンやその他諸々の国の料理を味わうことで見えてくることがあるかもしれません。
また全く違う分野の芸術同士が感化しあうことがあるかもしれません。

心理学は、多分、何をしていても勉強になると思います。

実際に来年度どんな動きをするかは、もう少し練っていくとして……。
こんなふうにいろいろと考えられるのは、今の生活に、気持ちのゆとりがあるからだと思います。
有難いことです。

気持ちにゆとりがないと、心の中に未来のことを考えるスペースが生まれません。
周りを見回すことすらできません。
そんな時は、心の整理をして、新しいスペースを生み出す必要があるかもしれませんね。
カウンセリグではそのお手伝いをさせていただきます。

皆様が、未来に向ってよりよい時間を多く持てるよう、今年がよい年となりますようお祈りしております。
posted by サトウマリコ at 11:27| Comment(4) | ココロ

2010年03月15日

多様な価値観のひずみ

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ある国に、日本の小学生の使い終わったランドセルを送って喜ばれた、という記事を数日前の新聞で読みました。
その国の習慣では、女の子は黒い服を着ることが多いので、女の子は主に黒いランドセルを好んで受け取った、ということでした。

入学式シーズンが近づいていますが、今のランドセルというのは、赤と黒だけでなく、随分色にバリエーションがあるようですね。オレンジや濃いピンクなどのランドセルを売り場で見かけて、果たして売れるのかしら??と思っていましたが、数年前から道で会う小学生の背中に、水色とか紺色、ピンク色などは、よく見かけるようになりました。

私はもちろん、赤と黒しかなかった時代に育ったので、もしも、自分が子供の頃に、個性的な色のランドセルをしょった子がいたら、どう感じるかな、と考えてみました。
よくわかりませんが、もしその子が堂々としていて、その子に似合っていたら、かっこよく見えて羨ましく思ったかもしれません。


またこれも、数日前の新聞だったと思いますが、高校生の絵画の入賞作品で、桜の花びらをピンク色を使わず、見事に現している作品がありました。


今、大人の私は、ランドセルにしても、絵画にしても、これらのことについて、「へぇ!」と関心することができます。

でも、もし子供の頃に、図画の時間、みんなで外で花の写生をしていて、隣の子の絵を覗き込んだときに、実際とはかけ離れた色の花が画面いっぱいに広がっていたらどう思うだろう、と考えてみました。

口に出すかどうかは別として、心の声は多分「それは違う!」とか「それはおかしいよ」かもしれません。あるいは、「○○ちゃんってちょっと変…」と思ってしまうかもしれません。

それは、私の中に、「写生とは見たとおり描くもの」とか「花は暖色系である」などという思い込みがあるからだと思います。


さて、大人の私たちにも、このような思い込み、価値基準は多かれ少なかれあると思います。

それらの規準は、ある時突然に他人からの攻撃の道具として自分に向けられたり、また知らず知らずのうちに自分自身のことを追い詰めたりします。

そんなふうに、人の悩みや苦しみに繋がるような価値規準で、私が出会った例を挙げてみると……

・子供は親の言うことを素直に聞かなければならない
・女性は○○歳までに結婚しなければならない
・子供を産んでこそ、女性に生まれた幸せを感じられる
・孫の顔を見せるのが親孝行だ
・配偶者より親の言うことが優先だ
・女性は家事をするのが当たり前だ
・結婚したら、夫(または妻)が舵をとるものだ
・仕事はどんな時でも全力を尽くさなければならない
・休日は趣味にいそしむのが健康的だ
・愛しているなら、○○してくれるはず
(○○してくれないのは、愛していない証拠)
・人前で上手に話せなければまずい
・病は気の持ちようだ
・メールや電話の返事をすぐにしないのは、相手に失礼
・○○ができない人間は生きている価値がない
・親は子供を傷つけてはいけない
・一人でいるのは寂しいことだ
・浮気は絶対に悪い
・人から評価を受けないということは価値がないということだ
・○○をしない(する)のは常識がない
・○○であることは、不幸だ


誤解のないように念を押しますと、上に書いたことは、「間違っている」ということではないのです。
逆に「正しい」わけでもないです。

よく、他人や自分を苦しめる規準として出てくるものだ、ということで挙げたのです。

では、こういった規準を持っていてはいけないか、というと、それもまた違います。

自分なりの、価値観を持つことは大事なことです。

ただひとつ、気をつけたほうがいいと思うのは、自分の規準と相手の規準は、必ずしも同じではない、ということを忘れないことです。

これを忘れてしまうと、こういった規準を絶対的なものとして、相手に押し付けたり、自分を責めたりしてしまいます。


相手が自分の規準からずれた反応を示すと、「やっぱり愛していないんだ」「なんて生意気な子!」「ちゃんと教えてあげなくちゃ」…といったストレスが生まれます。

その場合は、相手の規準と自分の規準がそもそも一致しているのか、というところから、考え直さなければならないですし、仮に一致していないとしたら、相手の規準は相手のものとして、侵食しないという選択も考えたほうがいいかもしれません。


また、ある規準に自分が当てはまっていない場合、「自分は世間一般の基準からずれている」「人よりも劣っている」などと焦ったり、不安になったりすることがあります。

その場合は、その規準が本当に自分の規準なのか、よく確かめてみることです。誰かに言われたことを、いつの間にか、自分の価値基準のように思い込んでいたりしませんか?どこかの誰かのぼんやりとしたイメージとしての規準だったら、もう一度よく、自分がどうなれば幸せなのか、自分の規準を作り直すのもひとつの方法です。
たとえば今、世間一般の基準とずれていたとして、本当に、現実的に、「楽しむ」ことは不可能でしょうか?逆に得していることはないでしょうか?

それでもやはり、自分は今のままでいてはいけない、と心から感じるのであれば、そうなるための努力をすることです。頭で考えるだけでなく、行動も伴いながら。


また、価値基準の合わない相手と交渉するスキルを身につける、というのも役に立つ努力だと思います。


私自身も年齢や経験とともに、自分の中での規準が変わったり、整理されたりして、少しずつ楽になってきたように思います。
規準や価値観が変わるというのは、楽になるとともに、多少寂しさを伴う場合もありますが、それも自分のものとして引き受けなければなりませんね。

このような価値観の齟齬により、人間関係や自分の人生について悩むことは、カウンセリングの世界でもよく出会います。
その方の価値観や規準を大切にしながら、ちょっとずつ楽になれるようカウンセラーとして少しでもお手伝いできれば、と日々考えています。

posted by サトウマリコ at 11:55| Comment(2) | ココロ

2010年03月09日

渡り鳥

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今朝できた拙句ですドコモポイント

 鳥帰る荷物心にのみ秘めて


まだまだ推敲の余地がありそうですがたらーっ(汗)



鳥が好きで、毎年のように北へ帰る白鳥を見上げている私は、よくこの「鳥帰る」という季語を使ってしまいます。

昨日の岩手日報の夕刊に、W型で飛んでいく白鳥の写真が掲載されていました。
今日、朝からウォーキングに出ると、次々と白鳥隊が編成され、別れを惜しむように鳴き声を挙げながら飛んでいく姿を見ました。

写真を撮って載せたかったのですが、残念ながらプロのようにはいかず、空の中の黒い小さなゴミみたいにしか写らないので諦めましたもうやだ〜(悲しい顔)

句の解説をするのは無粋なのですけども。。
毎年毎年、怪我をしたり体力がなくて飛べない鳥が池に残り、次の冬まで仲間との再会を待っている。。というニュースを聞きます。

残される鳥、仲間を置いていく鳥、どんな気持ちなのだろう、と切なくなります。
でも、渡り鳥は、いくら心残りがあっても、時が来れば出発しなければなりません。

人間関係でも、思い通りにいかないことや、思惑通りに運ばないことが、ほとんどの人にあるのではないかと思います。
それでも、時は進んでいくし、上手く解決できない、すっきりしない気持ちを持ちながらも、日々の生活を送っていかなくてはならないこともあると思います。

時には相手との関係を修復できないまま、別れなければならないこともあると思います。

いろんな思いを心に携えながら、鳥たちが身ひとつで空を渡っていくのを、人も見習わなければならないことがあるかもしれない。
そうしないと、ずっとマイナスの感情を持ち続けたまま、次の一歩を踏み出せなくなることもある、そんな気がします。

もしどうしても解決できない問題につきあたったら、「形での解決」はできなくても、せめてその感情が、時間をかけて、自分の中でよいものへと変化していくことを願ってやみません。
posted by サトウマリコ at 13:29| Comment(2) | ココロ

2010年03月05日

切れる包丁

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義母はよく季節の折々にいろんなモノを送ってくれます。
家の畑で取れた野菜や花、お米などと一緒に、お菓子や時には贈答品の食器など。

先日、長期滞在した時にわかったのですが、実はこれも贈答品だと思われる新品の包丁を「送ろうか送るまいか」迷っていたようです。
一応、包丁など刃物を送ることは「人生を切り開く」などと言われ、お祝いにも使われるようです。
でも、普通の荷物に包丁が入っていたら、どきっとしますよねあせあせ(飛び散る汗)
それでなかなか送れずにいた包丁を、やっと私に直接手渡すことができる、となったわけです。

これまでは、一人暮らしの時から長年使っていた「カジュアル」な包丁を使っていたのですが、さすがに切れが悪くなっていました。
そこに登場した本格派の包丁。ちゃんと包丁の名前までついています。

よく包丁は「切れないほうが危ない」といいますよね。
無心にもそれを信じていましたが。。
切れる包丁を使い始めて、既にに三度ほど指を切ってしまいましたもうやだ〜(悲しい顔)

もともとあまり器用でないのに加えて、多分、力の入れ具合が変わったせいだと思いますが、仮に、今までの包丁で刃が指に当たったとしても、「跡がつくだけ」とか「ちょっと切れちゃった」、となるところが、なにせ切れる包丁なので。。

キュウリの千切りをしていて、ちゃんと指を丸くしてあてがっていたのに、「スパンと指の皮が薄く切れて」しまったりもうやだ〜(悲しい顔)、カボチャが楽に切れるのはいいのですが、固い皮を半分だけ剥く作業をしている時に、ちょっとすべって当たった親指にしっかり切れ目が入ったり…前の包丁だったら、ここまでじゃないよなあ、という切れ方をしています。(で、流血。いつもなら止まるはずの血がなかなか止まらず、、何度か絆創膏を変えながら続行です)

その度に「なんで『切れない包丁のほうが危ない』とよくいうのに、切れる包丁で血を流すはめになるのか」と考えてしまうわけですダッシュ(走り出すさま)

切れない包丁のほうが危ない理由というのは、力を余計に入れるので手が滑った時に危ない。切れる包丁は軽い力でできるので、コントロールしやすい、といったところでしょうか。
それなのに、なぜ、です。

うーん。。

なんだか、職業病で、人生論に例えたくなってきました(カウンセリングでは、よく「例え話」を使います)。


ちょっと話が飛ぶように思われるかもしれませんが、私が思いついたことは、「正しいこと」の伝え方、です。

言葉の使い方や、人に何をどう伝えるか、というのはもちろん人の自由ですね。

例えば、正しいことに気づいている人は、ついそれを人に諭したくなったりします。
その時に、ストレートに正しいことを「スパン」というのがいいでしょうか。
それとも、相手を傷つけないように気をつかいながら遠まわしにいうのがいいでしょうか?

正しい答えはありませんね。

いくら言う側が意図を持っていても、受け手の感じ方は百人百様かもしれません。
そしてもし、受け手の感じ方として「傷ついた」としても、時間とともに、それが最高の治療になることだってあるかもしれません。だから、これが正しい、というのはいえないと思うのです。

ただ、結果として、言葉を発信する側と受信する側のズレが少ないほうがよいのではないかと思うのです。
良かれと思っていったことが、相手に深い傷を負わせてしまうのでは、哀しいことです。
もちろん、そのズレを少なくするためには、受信する側も努力が必要なわけで、そのために、「会話」があるわけですが。。


段々包丁の話とずれてきましたが、要は、道具も言葉も使い方によって、すばらしい<切れ味>となったり、相手に<傷をつける>場合もある…そんなことを伝えたかったのです。

カウンセラーとしては、「言葉の使い方」にはますます精進していきたいですし、包丁のほうも、、早く使いこなせるようになりたいものです。(切るのが怖くて以前の包丁に戻っている私…たらーっ(汗)



ちなみに。。
私の好きな詩の<一節>をご紹介しますドコモ提供


 正しいことを言うときは

 少しひかえめにするほうがいい

 正しいことを言うときは

 相手を傷つけやすいものだと

 気づいているほうがいい

 立派でありたいとか

 正しくありたいとかいう

 無理な緊張には色目を使わず

 ゆったりゆたかに

 光を浴びているほうがいい

 (―「祝婚歌」吉野弘―より)



さらにちなみに。
作者の吉野様は著作権に寛容な方のようで、インターネットで検索すると全文が読めると思います。全文を読んでもまた違った意味で、感慨深い作品です)
posted by サトウマリコ at 17:49| Comment(2) | ココロ

2009年11月10日

聞く・聴く・訊く

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先日ふとある紙面で、石川啄木の歌を目にする機会がありました。

岩手出身の彼の歌には故郷を詠んだものも多く、一見シンプルな言葉のつながりのようでいて、彼の感じた「一瞬」と同じものをしっかりと共有させてくれ、不思議と深く心が癒される瞬間があります。

そこで久しぶりに手元にある「一握の砂・悲しき玩具」という短歌集をぱらぱらとめくってみました。

好きな歌、感じ入る歌はたくさんあるのですが、その中で、個人的に忘れられない歌が一首あります。


 盛岡の中学校の
 露台(バルコン)の
 欄干(てすり)に最一度(もいちど)我を倚(よ)らしめ


私がこの歌に出会ったいきさつをお話すると、高校生の時、担任だった国語の先生が、ある日私を職員室に呼んで、この歌が書かれた紙を渡してくださったのです。



それにはどういう意味があったのかというと、その先生流の私に対するある意味「お説教」だったのです。

先生から見ると、私の高校生としての生活態度はめちゃくちゃだったのかと思います。
どういうのをめちゃくちゃというのかは、、いろいろあるとしても、学校というのは規則があるところですので、それを完全に守れていない私を心配してくださったのかと思います。

そこで、「大人になってから、あの高校時代に戻りたいと思っても、二度と戻ることはできないんだ、と啄木は詠んでいる。この貴重な高校時代を、毎日大事に生きなさい」というような意味のことをおっしゃりながら、その紙を渡してくれました。

この、ちょっと一風変わったお説教は、正直、新鮮に感じました。
なにしろ、ひとつの歌と特別な出会いをさせてくれたわけです。
あまり意識していませんでしたが、文学は好きだったので嬉しかった気持ちはありました。



私は、高校生の頃、決められた服装を守らない日が多くありましたし、テストでは所謂赤点を取ったことも結構ありました。

おかげで、いろんな先生に「叱って」いただく機会がありました。

いろんな先生がいろんな「叱り方」をしました。

いろんな先生の「叱り方」を通して、私はより深く、その先生の人となりを知ることができたように思います。

優しく諭してくれる先生、言葉は怖いけど本気さを感じない先生、よく声をかけてくれる中で時々注意してくれる先生。名前も知らないのに、廊下でいきなり襟首を掴む先生。事情をよく聞かないままに怒り出す先生。

随分、私は高校生の頃、手を焼かせた良くない生徒だったと披露しているようで、正直書くのを少しだけためらうのですが、続けますあせあせ(飛び散る汗)

私自身は、高校時代が実は人生の中で一番好きと言える時間だったかもしれません。
高校生の頃もリアルタイムでそのように思っていました。
その高校が大好きだったのです。

ただ、自分の力だけでは解決できない悩みがあって、私はそれをサインとして外に出すことが必要でした。
もちろん、無意識だったと思います。

そして、そのサインに返ってきた反応が、上記のようなものだったわけです。



今は私は社会に出て、学校という組織の意味やその中での教職員の役割が何か、ということが理解できます。
ですから、その時にとった先生方の行動に良し悪しは感じません。

ただ、一方的に叱るだけで、私の気持ちを聞こうとしてくれなかったのは共通しているように思います。

先ほどの短歌を教えてくれた担任の先生にしても、どうして一言「何か悩みがあるのか」と訊いてくれなかったのだろう、という気持ちがないわけではありません。

あるいは、訊かれたのかもしれないですが、訊かれても、答えられなかったと思いますし、もし私が悩みを打ち明けたとしても、その先生にはなす術がなかったかもしれない、とも思います。

それもまた、先生と生徒という立場や距離感がそうさせている部分もあるのだろうと、今は思います。



私たちカウンセラーは、カウンセリングルーム以外で、利用者の方と会うことはありません。
そこでカウンセラーに話すかどうかが、直接利害関係に結びつくことがありません。
だから、利用者の方は安心してカウンセラーに話してくださる部分も大きいと思います。

けれど、皆が皆、カウンセリングを受ける環境にあるわけではありません。

だから、身近なところに、少しでもいいから、積極的に<相手の気持ちを訊ねる>人がいれば、気持ちが楽になる人がたくさんいるだろうな、と思います。

(ちなみに、私自身も、学校の先生以外に「聴いてくれる」大人や、友人がいたことが、とても助けになったのだと思います)

そして、そんな人が増えていくには、まず自分が相手の気持ちを気づかったり、訊ねたり、そんなことを意識してみるのもいいと思います。

最近、傾聴ボランティアなど、聴くことの大切さが注目を浴びてきていますが、「聴かなければ」と構える前に、まずは目の前の人に「訊く」ということでも変わることがあるかもしれません。



今日も長くなりましたドコモ提供
というわけで、上に挙げた啄木の歌は、私にとって少しほろ苦い思い出なのです。




posted by サトウマリコ at 12:12| Comment(2) | ココロ

2009年10月20日

ふじの原木

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紅葉狩りはもうシーズンを過ぎてしまったのかもしれないけれど、ご近所の木々の葉が色づき始め、黄緑からオレンジ、赤のグラデーションが美しい季節になりました。

私は、寒いのは少し苦手で、特にも真冬より初秋のほうが寒さを感じやすいので、これからの季節にびくびくしているところです。

とはいうものの、季節の移り変わりには、よいこともたくさん。
実りの秋を迎え、早生リンゴが出回り始めました。
先日は大きな台風があり、被害を受けた木も多かったのでは、と心配しています。多少キズがあってもかまわないので、産直などにはどんどん出荷していただきたいな、と思っています。

ところで、先日新聞で「ふじの原木」が年に一度だけ公開されるという記事を読み、なぜか興味を惹かれた私は、家族と連れ立って下厨川にある果樹研究所まで行ってきました。

一般公開の日ということで、さまざまな試飲、試食、ゲーム・・・等など思っていた以上に賑わいのあるイベントでした。

さて、目的の原木ですが、強い風の中、圃場を約30分ほど歩き、やっと辿りつくことができました。

簡単にいきさつをご説明すると、今は世界一の生産量を誇るふじという品種はほとんどの方がご存知だと思いますが、生まれたのは1939年、つまり70年前に「国光」と「デリシャス」という品種を交配した実から選ばれたのだそうです。

バナナやミカンに押され、リンゴ自体の売れ行きが伸び悩んだ時期、このふじが脚光を浴びてリンゴ農家の存亡の危機を救ったといわれています。

ものの本によると、リンゴは4000年も前からあったと伝えられています。それに比べると、ふじが生まれてから70年。まだまだ新しい品種といえるのかもしれません。

今では世界中にふじの木があるわけですが、そのもととなる一本しかない原木がここ盛岡にあると聞いて、駆けつけたわけですが、それにしても、何がこんなに自分の血を騒がせるのだろう?と、自分自身が不思議な思いでした。

実をいうと、私はとりたててリンゴが大好きというわけでもなく、植物に詳しいわけでもありません。
でもなぜか、その原木を見たくなったのです。
そして、その答えは、原木を自分の目で見ればわかるような気がしていました。

ところが、今こうしてブログを書いているわけですが、どうも、まだまだ自分の本当の気持ちには辿り着けないでいます。

なにかヒントをと思い、先日図書館に行ってリンゴに関する本を探してみましたが、沢山ありすぎて、とりあえず借りたのは「リンゴはとても体にいい!」という内容の健康関連の本でした(健康オタクなものであせあせ(飛び散る汗)

「ふじの原木への想い」に関する超個人的な研究は、もう少し続きそうです。もしかしたら、結構深いかも、という予感もあります。

幼い頃に読んだ本が一冊、結婚前に夫に贈った本が一冊。それぞれ別のものですが、どちらもりんごの木が登場する本でした。

そして、今、河合隼雄氏の「生と死の接点」という本を読んでいるのですが、その中にも何かヒントがありそうな気がしています。



随分中途半端な文章になってしまいましたが、なんとなくでも皆さんにお伝えしたかったことは何かというと、「母性」なんです。

その木の前に立った時、わたしが感じたものはまさしく「母性」でした。
この木から、たくさんの木が分けられ、そして今は病気になり、実もつけず、ただそこに静かに存在している。
それでも、そこにずっといてほしいように思う。
世界中に旅立った子供や子孫たちに、静かに思いを馳せている…私という人間の勝手な想像ですが、そんなふうに感じたのです。



人の感情について考える時、その人に関わった母性や父性についてを知る必要がある場合があります。
私自身の中にも、まだまだ潜んでいるものがあるような気がします。

誰の心にも、このリンゴの木のように、黙って静かに包み込んでくれる場所があると、安心できるのかもしれない。
ふと、そんなことを考えました。
posted by サトウマリコ at 14:43| Comment(2) | ココロ

2009年09月11日

がんばる前に

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最近私はがんばっていることがあります。
それが何なのかは、あえて伏せます。
発表するほどのことでもないし、、というのもありますが、具体的なイメージがないほうが、皆さんに自由に想像してもらえるメリットもあるかと思いますのでドコモポイント

その「がんばっていること」を始めたのは、約2カ月前でした。

それを「やろう」と決めたのは、約3年前でした。

もっと遡って、そんな感じのことができたらいいな、と思ったのは、約8年前でした。


もし、この話を他人のこととして聞いたらどう思うかな、と想像してみると、、こんな疑問がわきます。

「なんでもっと早くやらなかったの??」です。

やる方法はいくらでもありましたし、それをすることを勧めてくれる人、誘ってくれる人も何人かいました。時間も作ろうと思えば作れたかもしれないし、機会も作れたでしょう。

でも、長い時間、私にはそれを行動に移すことができませんでした。

最初に言ったように、それはオリンピックにでるとか、甲子園に行くとか(ちょっと大げさすぎますが)、そういうものすごく特別な類のものではありません。

多くの人がやろうと思えばできる「習慣」です。
しかも、それをすると、メリットのほうが多い習慣です。


ところで皆さんにも、このように「やろうと思っているんだけどなかなかできない」または「やめようと思っているだけどなかなかやめられない」という習慣がありますか?

もしあるとしたら、何故できないのだと思いますか?
「意志が弱いから」
「忙しいから」
「気持ちの余裕がないから」
いろんな理由が浮かぶかもしれませんね。
そして、心の中で「もっと頑張らないとだめだなあ」と呟いているかもしれません。



そしてみなさんの周りに目を向けると、「あと少しでもいいからがんばって○○したらいいのに」と感じさせる人はいませんか?

そんな人を見ているとどんな気持ちになるでしょう。

「たったこれだけのことが何故できないの」
「甘えているんじゃないのかしら」
「本当にだらしないんだから」
そんな気持ちが浮かぶことがあるかもしれませんね。
そして、時には声に出して本人に伝えてしまうかもしれません。
「もっと頑張りなさい!」



できない自分を感じると落ち込むし、やらない他人を見るとイライラするし。。
日常で感じる不快な気分のひとつですね。

ところで、どうすれば人はがんばれるのでしょうか。
あるいはどんな時に人はがんばるのでしょうか。

ちなみに、私がカウンセリングをしていて、冒頭のような話をクライエントさんから聞いたとしたら、おそらくこんな質問をすると思います。
「へぇ〜、何年もできなかったことが、一体どうしてできるようになったの? 今までと何が違うの??」

それに対する答えは、間違っても「前より気合を入れて頑張ることにしたからです」ではないと思います。
気合を入れて頑張ることができるなら、何年もそのままになっていなかったはずです。
しかも、あきらめるのならとっくにあきらめていたと思います。

「やろうと思い続けながら(あきらめていない)、何年もやれない状態を維持してきた」ことがポイントなんです。

私ができるようになった理由は、ひとつではありません。
でも、以前に比べると何かが変化し、そしてきっかけがあり、自分の中から自然にエネルギーが湧き出るような感覚で、機が熟したことを感じます。
「がんばるための何か」を得た、という感覚に近いです。



他人が思うように動かない、ということがかなりの重荷になる場合があります。
自分と利害関係のある職場の上司・同僚、取引のある人。
夫、妻、嫁、姑。
そして何より自分が育てている子ども。

その人のことをよく見てあげてください。
なぜ、「動かない」のか。「がんばらない」のか。
それは、もしかすると「動けない」「がんばれない」のではないか。

もし、後者だとしたら、動き出すまでに「何か」が必要なのかもしれません。
多分それは、叱咤、激励、説教とは別のものではないかと思います。
それが何なのか、ひとつの答えは出せませんが、おそらくあたたかい温感のものではないでしょうか。



花巻東高校のピッチャー、菊池雄星くんは、今かなりの注目を集めています。野球の技術だけでなく人間的な言動が、人々を魅了するようです。

その言葉のひとつにこんな一節がありました。
「今こうやって考えてみると、ここまで野球を続けることが出来たのは、自分の力でも、自分の素質でも全くなく、支えて下さっていた周囲の方々との出会いに、本当に恵まれていたからだと思います」

仲間や指導者、いろんな人との出会いが彼ががんばる元の力になっているのだと感じました。



人が「がんばる前の何か」に出会うには、時に時間がかかることがあります。

その何かを探しながら、毎日を生きることに意味があるのかもしれません。

すぐにできない自分や、すぐにできない誰かに、しびれを切らしそうになることがあるかもしれませんが、時間は確実に流れていきます。
その流れを優しく見守ってあげること・つきあっていくことも、簡単ではないかもしれませんが、大事なことだと思います。

posted by サトウマリコ at 12:05| Comment(4) | ココロ

2009年02月06日

ステップアップダイアリー

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ご無沙汰していましたドコモポイント
寒さは続いていますが、ここ数日、日中はカラリと晴れて気持ちのよい天気が多いです。春の予感を感じる瞬間もちらほら。

さて、お正月に決心したことや、今年の抱負は、忘れることなくお過ごしですか?
私は約3週間くらい経ったところで「悪魔のささやき」がいっぱい聞こえてきました。
正直に言うと、もとに戻ってしまった習慣もいくつかありますたらーっ(汗)

ちなみに、私は昔から日記をつけている期間が結構あったように思います。
一時はパソコンを使っていましたが、ここ最近は手書きの「3年日記」。これは続いている習慣です。

で、その日記を書くときに、プラスアルファとして最近やっていることがあります。
それは、あるテーマについて、<うまくいった理由>を書き留めるという作業。

実は私のカウンセリングの時に、クライエントさんに使ってもらうために発案した「ステップアップダイアリー」という冊子があるのですが、自分でもそれを実践しているというわけです。

なかなか良いです。
一日の終わりに、ちょっとでもいいから「できた自分」を確認。もしそれほど「できなかった」としても、少なくとも「それ以上は悪くはならなかった」理由が絶対にあるはずなんです。
これを続けていると、無意識にやっていた「よい方法」が意識化されて、自分をコントロールするのがどんどん楽になっていきますし、何より、自分を肯定する力がつきます。

「マイナス思考」「自己肯定感の低さ」という言葉は、心理学に限らずよく聞くようになった気がします。そして、それ自体があまりよくないもののように捉えられる場合が多いようです。
必ずしも悪いかどうかは一概に言えませんが、最終的に、これらを変えようとするなら、考え方の癖や歪みを自分で変えていかなければならないのだと思います。

私もどちらかというと自己批判をすることも多いので、うまくいく方法で埋まった頁を見ると、ちょっとほっとします。
ゆるやかに、続けたいと思いますドコモ提供

posted by サトウマリコ at 16:03| Comment(0) | ココロ

2008年12月06日

反省のすすめ

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新聞を読んでいると、今年一年を振り返る記事を多く見かけるようになりました。
年の瀬なんだなあ、と実感しますドコモ提供

皆さんは、今年を振り返っていかがでしたでしょうか。
私は、日々頑張っているつもりですが、年の最初に掲げた目標は、半分はできませんでした。
目標達成できたという方は、嬉しいものですね。

さて、私のように達成できなかった方は、今どのような心境でしょう。
「私ってダメだなあ・・・」なんて、自分を責める声が頭の中で駆け巡ったりしていませんか?

そんな方に、<落ち込まない反省のしかた>、そして、より達成可能な目標の立て方をご紹介したいと思います。

反省というと、「どうしてダメだったか」「これからどんなことに気をつけたらよいか」、このようなことを考えるのではないかと思います。
過ちを繰り返さないためには確かにこのように振り返るのは大事なことです。

辞書を引くと反省とは「自分で自分の言動を振り返って考えること」とありました。
厳密には、反省と言わないのかもしれませんが、私は、ダメなところだけでなく、「うまくできたexclamation」ということにも是非注目していただきたいと思います。

一年を通じて、目標を達成はできなかったけれど、例えば一日でも「できた日」「うまくいった日」はありませんでしたか?
完璧にできなくても、何かそれに近い体験をしたことはありませんか?

そして、そういう時「なぜ<できた>のか」、その理由を探してみるのですドコモポイント

例えば、私の場合は、今年の目標の中に「運動をする」というのがあったのですが、とても達成できたとはいえません。
できなかった理由をあげれば、とても沢山あるような気がします。
忙しかった、なんとなく運動をする気分になれなかった、根気が足りなかった・・・なんて、いいわけのような理由が次々と浮かんできます。

もし、これで来年も同じ目標を立てて、「今年こそ自分に厳しく!」と気合いを入れれば、達成できるでしょうか。
うまく習慣になってしまえば、できるかもしれません。
でも、実は、私はここ何年も同じことを繰り返している常習者なのですたらーっ(汗)

そんな私でも、今年、何度か気持ちのよい汗を掻いた日がありました。
しかも、普段運動していないのに、真夏の天気のよい日に屋外でテニスをしたのです。これには自分でも驚き、「やればできるんだ」と思いました。

何ができた理由なのかというと、多分「運動をしなければ」という理由ではなく「楽しいかも」という気持ちだったと思います。

心理学の療法のなかで、人は何か(「こうしなきゃ」という内面の声や「〜しなさい」と怒る誰かの声)に追いたてられてやるよりも、「快感」に向かっていくほうが、自然にできるということがわかっています。

ですので、私は来年も運動を目標に掲げようとは思いますが、今まで無意識に思っていた「運動(をして体力をつける)」を少し変えて「運動(をして楽しむ)」にしてみようかと思います。

みなさんも是非、今年一年の自分を振り返るときに、「できたこと」にも注目してみてくださいね。
そして、自分に「OK」を出して、気持ちよく新しい年を迎えましょうぴかぴか(新しい)
posted by サトウマリコ at 11:23| Comment(0) | ココロ

2008年10月27日

体のコリ・心のコリ

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段々と、寒さを感じることが多い季節になりました。
知らず知らずのうちに、肩をすぼめていたりして、肩こりになったりしていませんか?

たかが肩こりされど肩こり。ひどくなると結構きついものですよね。
時には首のこりや頭痛にも繋がることがあります。

こういった「体のコリ」には、さまざまな原因が考えられるわけですが、「心の状態」がこの体の症状と繋がっている、という場合もあるのです。

気持ちが暗くなっていると、前かがみになったり背中を丸めたりして、あまりよい姿勢ではなくなったりしますよね。
その姿勢の悪さが、呼吸のしかたに繋がって、体内に取り込む酸素の量も変わってくるわけです。そうすると、体がリラックスできず、筋肉が硬くなっていく場合があります。

また、緊張したり、不安になったりした時も、自然に力が入り、筋肉が長い間緊張状態になっているので、血流なども悪くなり、さまざまな不調を起こしやすいということがあります。

逆にいうと、体を意識的にリラックスさせることで、血流もよくなり、心の状態も安定する場合があるわけです。

その「意識的にリラックス」というやり方がよくわからない、という場合に助けになる方法のひとつが、自律訓練法だったり、リラクセーションだったりします。

どちらも直接体に触れることはなく、セラピストの言葉の誘導だけで、体の力を抜く感覚を味わってもらうもので、私も時々カウンセリングに取り入れています。
全く触れることがないのですが、たまに「マッサージのあとみたい」という感想をいただくことがあります。

肩こりに限らず、知らず知らず体に力が入ってしまう癖がある方にはお役に立てるメニューです。
よかったらカウンセリングの時にリクエストしてくださいねいい気分(温泉)

体のコリと心のコリは密接に繋がっています。
心のコリがとれない時は、先に体のコリからほぐしていくのもよいかもしれません。運動でもマッサージでも、リラクセーションでもよいと思います。体が楽になると、気持ちも解放されていくことが多いようです。

それから、体が凝ってきたら、もしかして気持ちのうえでも・・・と考えるとバロメーターにもなるかもしれませんね。

どちらも早めの対処が大事だと思います目









posted by サトウマリコ at 22:22| Comment(0) | ココロ

2008年08月19日

秋間近。

盛岡ではお盆を過ぎると涼しくなると言われています。去年はそれでも1週間か2週間くらいは暑さが続いていたように思いますが、今年は言葉通りで急に涼しくなりました。
みなさんは風邪など体調を崩されていませんか?

そして今週から休みも明け、仕事が始まった方も多いのではないでしょうか。
私のお盆は、久しぶりに懐かしい顔ぶれに出会ったり、と束の間の休息を過ごしました。でも、合間には仕事が頭から離れず…たらーっ(汗)

ワーカーホリックという言葉が一時期はやりましたね。ここ数年は正直ワーカーホリック気味だと思います。
生活全般の中でバランスを取ることも大事だと思いますが、今はそうもいかず、人生全体でバランスをとりたいと思っていますドコモポイント

さて、セラフィも後半戦がスタートしました。
頭の中での構想を形にすべく日々頑張っていますぴかぴか(新しい)

秋の講座、第一弾は9月3日から始まる「コミュニケーションスキル2級講座」です。
こちらは、実は今日が申込みの締切りでした。
気になっていた方、気づいていなかった方は、今からでもお席が空いていますので、ぜひHPのご案内をご覧の上、お申込ください。
<ほんの一歩>が大きな一歩になるかもしれません。
お問い合わせもメールでお受けしていますので、気軽に声をかけてくださいねドコモ提供
posted by サトウマリコ at 23:13| Comment(0) | ココロ

2008年05月07日

ストレスのため方?

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ご無沙汰していましたドコモポイント

これまでは、書きたいことがふーっと浮かんでブログに書いて…とやってきたのですが、どうもこの頃はタイミングがうまくいきませんでした。

ですので、今はあれもこれも、と書きたい内容が沢山あるのですが、とりあえず、さっき「ふーっと」浮かんだことを書きますね目

「ストレス」とか「ストレス社会」という言葉を、私は仕事柄もあるせいか、この頃とてもよく耳にします。
皆さんはいかがでしょうか。

ストレスを感じる理由や内容は、人それぞれ、沢山あると思います。

そのひとつで、私が最近気になることは「〜しなきゃ」と自分で自分に課していることが多いということです。

もちろん、仕事や家庭の役割の中で、当然すべきこと、というのはありますね。社会生活を送っていく上では大事なことです。

そうすると、そういうものは、自分の裁量(自分でコントロール可能なこと)ではないと思われるかもしれません。

例えば、仕事の期限を守ることは大事なことです。
それは、よほどでない限り変更することはできないと思います。

でも、その期限が来るまでの間をどのように使うかは、個人の裁量であるとも言えます。

綿密に計画を立てて、スケジュールをびっしり決める人もいれば、かなり大ざっぱに3日くらいでこれやろう、と考える人もいます。

前半すっかり忘れていて、直前に猛ダッシュでやって帳尻を合わせる、という人もいるかもしれません。

もちろん、どのやり方でもOKで、その時の自分にフィットする方法を選べばよいと思います。

でも、もし、ストレスを「ためよう」と思ったら、こんなやり方をすればいいかもしれません。。


まず、計画を立てる時は、自分が「やりたい」という感情を大事にするのではなく、「やるべきこと」を論理的に考えます。
そして、目標を設定したら、期限を決めて、逆算してそれに間に合うようにスケジュールを決めます。
そして、スケジュール通りに進行しているかどうか、なるべく短いスパンで確認しながら、上手くいっていなかったら、そのやり方を検証してダメな理由を探します。
明けても暮れてもそのことを考え続け、目標を達成するまではわき目をふらず努力し続けるようにします。

と、こういう感じです。

どこが悪いのか?というと、どこも悪くないですよね。。
ただ、このやり方だとストレスは溜まりやすいかもしれません。

もし、強くストレスを感じている方で、上のようなやり方に当てはまる方がいたら、次のように修正してみるといいかもしれませんぴかぴか(新しい)


まず、計画を立てる時は、「やるべきこと」を論理的に考えた上で、自分自身の「やりたい」という感情がどれだけあるのか、やることにどのような意味があるのか考える時間もとるようにします。
たとえ、「やりたい」ことでなく、それでもやらなければいけない、ということだとしても、そこには必ず意味があるのだということを忘れないようにします。
そして、目標を設定したら、期限を決めて、逆算してそれに間に合うようにスケジュールを決めます。
そして、スケジュール通りに進行しているかどうか、大まかなスパンで確認しながら、上手くいっていなかったら、そのやり方を検証してダメな理由を探します。同時に、ダメな理由があったにも関わらず、結果が壊滅的ではない理由も探しておきます。
その仕事に関わる時以外は、脳をリラックスさせ、いざというときにがんばれるように休めておきます。時には、まったく別のことを考えているうちに、違った角度からヒントを得られることがあるかもしれません。
それから、もしも期限に間に合わなかった時の対処の仕方を考えておくと、気持ちが楽になるかもしれません。
期限に間に合わなければいけないから仕事なのですが、最終的には命より大事かと問うてみることも必要です。


仕事を例にしてみましたが、スポーツや勉強、その他いろんな場面に応用できると思います。
よかったら参考にしてみてください
ドコモ提供




posted by サトウマリコ at 16:04| Comment(2) | ココロ