カウンセリングをする時に、コミュニケーションのしくみについての知識はかかせません。なぜなら、多くの場合、人の悩みには何かしらの人間関係がついてまわっているからです。
コミュニケーションというと、相手に対してどのような伝え方をするか、ということに目が行きがちですが、実はその前の段階で大切なことがあります。
それは、「自分の気持ちに気づいていること」です。
<自分で自分の気持ちがわからない>ということを不思議に感じるでしょうか。
確かに単純に「今日はこれが食べたいな」とか「この仕事はあまり好きではない」といったことはわかりやすいかもしれません。
でも、「なんとなく何かがひっかかる」とか「気持ちがモヤモヤするのだけれど、はっきりと言葉にするには難しい」という場合があります。
また、この感覚には個人差があり、自分の気持ちにアクセスしやすい人もいれば、なかなか繋げない人もいます。
理由はいろいろあるかもしれませんが、そのうちのひとつに、小さな頃からの心の癖があります。
例えば、それは親子の間で、いつも行われてきたコミュニケーションに関係している場合があります。
「男の子なんだから泣いてはだめ」とか「すぐそうやってむくれるんだから」「いつもにこっとしていなさい」などという言葉は、親にしてみれば、強く生きてほしい、素直に育ってほしいという願望の表れかもしれませんし、それほど深く考えずに口にしていることかもしれません。
子供は、こういった「〜しなさい」というメッセージを繰り返し受け取ると、それを忠実に実行し続ける場合が多いことがわかっています。
つまり大人になっても、嫌なことがあっても顔に出さずに引き受けたり、泣きたいほど悲しいことや苦しいことがあっても誰にも助けを求めずに一人でこらえようとして、心身ともに限界をきたすのも、こういった心の癖の延長にあることがあります。
こんなふうに、「いつのまにか」その心の癖はついてしまいます。
私自身が最近気づいたことは、感情ではなく、味覚にアクセスしづらい、ということでした。
というのも、私の母の口癖は「ほら、おいしいよ」なのです。食卓に並ぶ母の手料理は、もうその時点で「おいしい(に決まっている)もの」だったのです。
もちろん、私の食への関心の薄さがすべて母の影響とは限りませんが、私はかなり長い間、世の中で「まずい」と思う食べ物に出会ったことがありませんでした。外食をしても、どこで何を食べても、ほとんどのものは「おいしいもの」だったのです。
私には、食べ物に関して「おいしいか、おいしくないか」を考えるという思考がすっぽり抜け落ちてしまっていたようでした。
そんな私から見ると、何かを食べて「ちょっと変な味」「これはもっとこうしたほうがいい」というように批評している人に違和感を覚えるわけです。
けれど、この頃になってやっと、気がつきました。
味に違いがあることと、(大方は「好み」で左右されるけれど)感じたことを口にしてもいいのだ、ということをです。
私の味覚と同じように、長い間、自分の感情を「感じないように」してきた人もいます。
前述のような親子でのやりとりがあったり、若しくは、そうしたほうが、生きやすい環境にあったからです。
大人になって、もう大丈夫、自分のことは自分でできる、という環境になってから、少しずつ殻を破るように「感じてもよい」という体験をしていく人がいます。そういった方は決して少なくないのではないかと感じています。
私は食に関しては、今でもほとんど「おいしい」以外の言葉を使うことがありません。実際そう感じることが多いということもありますが、慣れないことをするのは怖いからです。
感情も一緒です。
自分の何かを変えようとする時、他人からは簡単なことに見えても、本人にとっては怖かったり難しかったり、よくわからなかったりします。
自転車に乗るとき、最初補助輪をつけて練習したり、誰かに後ろから押さえてもらったりしますね。
同じように、カウンセリングでは、これまでになかった感覚で、自分の感情を感じたり、それを表現をしていくためのお手伝いもしています。
カウンセリングが進む過程で、自然な流れとしてそこに行き着く場合が多いです。
そしてそのような流れに乗った時点で、大きく前進したという手応えをクライエントさんと共に感じるのです。