2010年11月24日

本の紹介「家族の勝手でしょ!」

「家族の勝手でしょ!−写真274枚で見る食卓の喜劇―」
岩村暢子著 2010年2月20日 株式会社新潮社発行 
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仕事柄、心の不調と体の不調についての繋がりについてよく考えたり調べたりします。
また、心の不調について考えるとき、その方の「考え方」や固有の「経験」について主に心を配ります。

心の不調については、もうひとつの観点も重視しています。
それは、「食生活」です。
体の病気もそうですが、心の状態も実は食べ物と繋がっているという考え方があります。

自分が思春期だったころは、「イライラしやすい=カルシウム不足」などと言われると、そんな単純なものではない、と思ったものでした。
確かに要因はひとつではないと思いますが、今は、「セロトニン」や「ドーパミン」など、脳内の神経伝達物質が、気分の落ち込みや状態を左右する、という説がある程度浸透しています。

出来事によって、そういった物質のコントロールがうまくできない状態に陥ったのか、あるいは逆にコントロールがうまくできないから、遭遇した出来事に適応できないのか、つまり卵が先かひよこが先かまではわかりません。
ただ、一度そうなったからには、食物を摂ることによってそれらの物質が体内で作られる、ということに目を向ける必要がある、と考えます。

という理由から、栄養と気分、免疫などとの関わりについて関心が高く、一般書になりますが、いろいろな本を手にとってきました。
つい先日も、胃や腸のしくみと食生活についての本を読んだばかりでした。(あらためて、野菜をもっととらなければ、などと思ったりしました)
機会があり、そのすぐ後に読んだのが、タイトルの本です。

そのギャップが衝撃でした。
今まで、「このような食生活をすればよい」という理想を示唆する本ばかり読んできたわけですが、気がついてみると、普段「皆さん」がどんな食事をしているか、という本を手にする機会はなかったわけです。

かいつまんでこの本の中に出てくる「驚愕な」食卓を紹介すると…。

・一週間野菜がほとんどでてこない食卓
・スナック菓子やケーキを皿に持った朝食
・ご主人がいる時と不在の時に大きな違いのあるメニュー(定食のような食卓とカップラーメンとか)
・子供はコンビニで自由に選ばせたもの、母親はビールとつまみの昼食
・素うどんや素パスタなど具のない麺類
・各自の皿に取り分けることなく、魚ですら、一尾を家族全員でつつきあうスタイル
・一つの食卓を家族全員が時間差で使うシステム
・パソコンや携帯、その他のもので溢れ、食器を並べるスペースがちょっとしかないテーブル

などです。
これらは、写真つきで紹介されています。

また、この本に載せるために行っている(継続している)調査では、まず事前アンケートをとり、子供を持つ世帯の主婦に、食事づくりで気をつけていることなど細かく訊いています。
さらに、調査は一週間続き(前半と後半で差が顕著にあらわれるため、この設定にしているそうです)、終わった後に、事前調査とのギャップについて面接調査により訊ねています。

その言葉が、また衝撃を受けます。
例えば、「野菜を沢山とるように配慮している」主婦の食卓に、1週間ほとんど野菜がのらなかったことがわかり、それを指摘すると「栄養指導で、一週間で帳尻を合わせればいいと聞いたから、一週間に1度は出すようにしている。この週はたまたまのらなかっただけ」という答えが「あっけらかん」と戻ってくるようです。

それに類似したエピソードがてんこもり、の本でした。

この本の書評で、「昭和40年代以降に生まれた人は、料理をしない」といった論調で批判している方もいらっしゃいます。
確かにそうかもしれません。
私にも当てはまる部分が全くないとはいえません。
少なくとも、お出汁を最初からとることはしていません。

あとがきを読むと、この調査は「主婦」を対象としているが、この本で語られているさまざまな問題が主婦や女性にだけに起因すると考えているのではなく、主婦に焦点を当てることで問題が見えやすい、というねらいがあることが紹介されています。
写っているものに目を奪われず、その奥にある社会背景へと目を向けてほしい、と。

非常に考えさせられました。
中流世帯を調査したということですが、何割くらいがこのような食卓なのか?線引きが難しいようで、そのへんの数字は書かれていません。ですが、決して極端な例だけを引いたわけではないということです。
この本によると、主婦は、忙しく、疲れているそうです。「そんなこと(食事づくり)をしている暇はない」とも思っているようです。
それと、ご主人もそのことに異をとなえていない、という家庭が多くみられるようです。

私たちは、昔のような「食卓」を忘れてしまうくらい、一体何に、夢中になり、時間を奪われているのでしょうか。
「ネット」「子供の習い事」「その他のこと」……?
便利で早くて安いことを求め、ニーズに応えて産業が発達し、思わずそれを手にとってしまう。
食卓の変化は、個人の問題というよりも、そういう社会に住んでいれば当然のことかもしれません。

先日、用事と用事の合間に、ショッピングモールへ行きました。
駐車場にはあふれるほどの車。結構混んでいます。
軽い昼食をとるため、ファーストフードの店に囲まれたフードコートへ行くと、人でごった返していました。
時間帯は昼を過ぎていましたが、それでも他の店よりも、フードコートのほうが人が多いように感じました。
この本のことを思い出しながら、私も、目の前で20秒ほどで作られたうどんをすすったのでした。

社会規模の現象を総括するのは難しいのですが、まず手始めに私がしたことは、毎日の自分達の食卓をカメラに収めること。何かが見えてくるかもしれません。
posted by サトウマリコ at 11:42| Comment(7) |

2010年10月01日

本の紹介

ほめ言葉のシャワー

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ことば:「シャワーに参加してくださったみなさん」
編・著 水野スウ/中西万依
2008年6月8日 初版第1刷発行
2010年4月17日 第17刷発行


この本は、てのひらサイズの手づくり本です。といっても、製本作業自体は10刷まで手作業で、その後は印刷会社にお願いしているそうです。

もともとは手づくりで製本していて、今でも市販されていない本ですが、口コミでかなりの冊数が売れたのだそうです。

どんな本かというと…

まず、装丁が素敵。
あたたかいんです。
枠にとらわれない、さりげないイラストや写真。
そしてその隙間を、それぞれがいるべき場所を知っているかのように、ぬくもりを持った手書きの言葉が埋めています。

石川県在住の水野スウさんとおっしゃる方が、ワークショップの中で参加者のみなさんに、ほめ言葉のシャワーというものをやっていただいているのだそうです。

「あなが言ってもらいたいほめ言葉、はなんですか」
こうお訊きして、その場にいる一人ひとりに小さな折り紙を渡し、一枚にひとつずつほめ言葉を書いてもらい、そのあと半分に折ってかごの中へ。それをまぜて、一人ずつ順番に紙を取ってもらい、自分の手の中にあるほめ言葉をペアの相手に伝える・・・そんなワークなのだそうです。

そのワークから沢山の素敵なほめ言葉が生まれ、やがて、この本が生まれたわけです。

中西さんの「おわりに」の言葉によると「えらい学者さんが机の上で練り上げた言葉じゃなくて、今この世に生きているどこかの誰かが、自分の生活の中から生み出した言葉。そんな言葉の呼吸が伝わってくるような本にしたい、という思いをカタチにしたらこんな本になりました」ということなのだそうです。

この言葉にぎゅっとこの本の意味が凝縮されているように感じます。


みなさんは、「ほめ言葉」というと、どんな言葉が思い浮かぶでしょう。

「すごいね」「素敵だね」「がんばったね」……。もっといろいろあるかもしれませんね。

ほめ言葉は嬉しいもの。

だけど私たちは日本人だからなのか、ほめ言葉を発することにも受け取ることにも慣れていない人が多いように思います。
だって、慣れていたら、私も心理学の講座でやっているように、わざわざ、相手を褒めるワークなどする必要がないわけですから。

本を読んで私自身、あらためてそのことに気づかされたように思います。

そしてもうひとつ気づいたのは、同じほめ言葉でも、自分に響く言葉と響かない言葉があるということ。

それは何故なのか……。

きっと、言われて嬉しいほめ言葉には、その人の生き方やがんばっていること、感性、価値観、そんなものが関係しているからではないでしょうか。

他の人にも読んでもらいましたが、それぞれにいいと思った言葉が違いました。その人の感性に響く言葉。その人が一番大事にしていたこと。そこを突かれると、ぐっとくるんです。


この本を読んでいると、きっといくつか自分の心に響く言葉が見つけられると思います。

沢山の言葉の中から、少しだけ抜粋させていただきます。


今日のごはん おいしかった!

やっぱりウチが一番やわー

腕白ざかりをよく育ててるよ!

遠くにいてもあなたを想うとあったかくなるんだ

生まれてきてくれて ありがとう

あなたが必死に生きていること 私は知ってるよ



どうでしょう・・・あなたが受け取りたいほめ言葉はありましたか?

「ほめ言葉のシャワー」には気持ちよいシャワーのような言葉があふれています。

興味のある方はこちらから辿ってみてください。

http://kimochi-tea.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_41fd.html

カウンセリングセンターの待合室にも置いておきますので、よろしければ、いらした時、手に取ってご覧くださいね。

この本を紹介してくださったT様、ありがとうございました。
posted by サトウマリコ at 14:09| Comment(2) |

2010年08月04日

本の紹介「働きすぎに斃(たお)れて」

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「働きすぎに斃れて」 ―過労死・過労自殺の語る労働史
著者 熊沢誠
発行所 岩波書店
2010年2月18日 第1刷発行


著者は、膨大な資料をもとに374ページに及ぶ本編を書き上げています。
それは、労働研究の専門家として「客観性」を大事にするごく当たり前の姿勢からきているものかもしれません。
しかし、著者がこの本で大事にしているのは、客観性のみならず、個々の物語だともいえます。
その理由は、法廷では問題にされなかったような事実を抜きにして本当の問題には辿り着けないと考えていたからではないか、と推察されます。

多くの章を具体事例、その家族の証言、法廷でのやりとりの記録に割き、その全体像を読者につきつけているように思います。
私は、この本を読みながら、その「つきつけられたもの」に思わず目を背けてしまいたくなることがしばしばありました。

物語性を大事にしながらも、客観的資料の提示を怠らない内容からは、過労死された方の、具体的な勤務内容が伝わってきます。

何時間連続勤務、月残業何時間、プライベートと職場の境目の無い労働、年間何日以上・何カ国の海外勤務、もちかえり残業、生産量・品質・契約高、納期などのノルマ、管理者としての責任、要員の少なさ、支援体制のなさ(ひとり作業)、成果主義のなか競争的となり同僚同士の助け合いの雰囲気がない、上司の言葉や態度による精神的な圧力、収入に占める基本給の低さからくる「自主的」残業。

この本に挙げられた、実際にあった上記の内容は、具体的にイメージしようとすればするほど、私の頭がそれを拒否しようとします。あまりにも過酷でイメージできないのです。

けれど、例えば、輸送業界でのトラック運転手の労働条件の過酷さ、工場の生産ラインの現場の過酷さ、博覧会場創設に関わる電気工事技師の肩にかかる膨大な負担、その他数限りない過労死裁判の具体事例から、私たちの便利な暮らしのかげに、どのような労働があったのか、という事実がはっきりと見えてきます。

私たちが普段の生活から想像できることというのは、例えば次のようなことではないでしょうか。

国内であれば、数百キロ離れた地域でも、2、3日で届く荷物。パソコンのキーをクリックして、次の日には届くモノ。スーパーやコンビニで手に入る菓子などをはじめとするさまざまな商品。次々に進化していく工業製品。乗り物に乗った時に見かける運転士や乗務員。病院で働く人。学校の先生。
そんな私たちの便利な暮らしのかげに、働く人がいるだろうことがぼんやりと想像できる……。

けれど、そのことはわかっていても、その一人ひとりが、トータルでどんな働き方をしているのか、まではわかりません。

しかし、この本を読むと、過酷な労働をしていた人たちの暮らし方がわかります。多くは家族の目から。そして裁判の資料から。

いくら出勤を止めても、病院に行くことを勧めても、「この仕事を終えるまでは」「自分がいなかったらまずい」といって、体を引きずるようにして家を出て行く、夫、父親、息子。
それでも企業側の多くは、命を落とすにいたった原因を個人の問題に求めようとしています。
けれど、その人たちは、そうせざるを得ない環境に置かれていたのだ、ということがこの本を読むとわかります。

その結果、働く人たちは、脳出血、心臓発作などで倒れていきます。鬱病と思われる状態に陥り、自ら命を絶ちます。
これは、殺人だ、と思わずにはいられませんでした。



なぜ、私がこの本に関心を持ったか少しお話をします。

カウンセリングの現場には、いろいろな年代、性別、立場の方がいらしてくださいます。

私はその度に、自分の経験や知識を総動員しながら、お話をうかがいます。

幼かった頃の自分、さまざまな人間関係、そういったことが、カウンセリングに来てお話してくださる方の世界へと自分を重ねていく助けになっています。
どんな年代のどんな立場の方へも共感する想いを感じられます。

しかし、私がカウンセラーという道を選んだきっかけを辿ると、この「労働」というところへ行き着くのです。

ある職場で、ある時、私は初めて自分の限界を知ることとなりました。
上の方の要因から選ぶと、勤務時間、ひとり作業、ノルマ(期限)、上司の圧力がありました。
けれど、周りを見渡すと、「みんな同じような環境でふつうに働いて」いるのです。

多少の環境の違いはあっても、多かれ少なかれ、きつい思いをしながら働くのが当たり前なのです。「家族を守るため」「やりがいを見出すため」「生きていくため」。

ですが「どこかに」自分の限界がある、というのは誰でも同じことだと私は思っています。たまたま限界がくるポジションにいないだけかもしれませんし、限界にならないよう要領を身につけている方もいらっしゃるかもしれません。
でも、誰しもが、限界を感じる(心で感じなくても、体や生活習慣にでる場合もあると思います)可能性はあると思います。

話を戻しますと、私が、「限界だ」と感じた頃というのは、ちょうど、日本の自殺者が三万人超えをした頃で、いろんな意味で、日本の労働環境から「緩さ」が吸い取られていくように感じ始めた頃でした。

自分自身が、なんとか生きることで精一杯でしたが、徐々に環境が改善され気持ちに少しゆとりができ始めた頃、確信しました。
自分以上に大変な思いをしている人が、きっと日本中にいるだろう。自殺を考える(にいたってしまう)サラリーマンが絶対にこれから増えていくに違いない、と。

リストラで仕事が見つからない人たちも大変、残された働く人たちも大変。しかも、その人たちは、こんなふうになった世の中をどうにかしようとか、何が起こっているのか、考える・知る余裕すらない中で、ひたすら泳ぎ続けるしかない状態なのです。

そんなことを、ぼんやりと考えていました。
でも、わかっていても、自分には大きすぎる問題で、やはり今の自分にできることは、自分の目の前にあることでしかありませんでした。



この本を手に取ったのは、あるブックレビューで紹介されていたからです。紹介者は、NPO法人もやい事務局長の湯浅誠さんです。年越し派遣村で一躍有名になった方ですが、その活動暦は1990年代にさかのぼるようです。

レビューの中の湯浅氏の言葉に『「ふつう」のサラリーマンたちがサバイバーに見えてきた』という部分がありました。
いたく同感して、この本を手にとったわけです。

この本の中には、私が以前、日本中にいるはず、と確信したサバイバーであるサラリーマンたちの記録が詰まっていました。

その記録は、すでにお亡くなりになっている方の記録です。
しかも遺族の方、弁護士の方が、大変な時間と労苦をかけて、裁判に臨み、ある方は勝訴、またある方は敗訴という結果がでたものです。

世の中が便利になった、そのかげに、きつい労働がある。それをしているのは、自分の夫かもしれないし、父親かもしれない。あるいは、男性とは限らず女性も沢山いることでしょう。

社会の大きなうねりを変えることは容易ではありません。
しかし、テレビや新聞だけでは知ることのできない、労働の「実態」を知ることは大切なことだと思います。
この本を著すことでさえ、著者は、大変なご苦労をされたと思います。そして、あとがきの中で『いま痛切に願うことは、できるだけ多くの現役の働き手たちが、執拗にすぎるほど紹介された死の事例を読むことを通じて、「これは私にも起こりえたことかもしれない」と、みずからの勤労の日々を顧みてくださることである。』と述べられています。

自分の身、家族の身に起こらないとは限らないこれらの記録は、貴重な一冊だと思います。


企業のメンタルヘルス、と謳われるようになって久しいように感じていますが、まだまだそれだけでは届かない部分、けれど、それがあることで救われる部分があることもまた確かだと思います。

カウンセラーとしても、できることから役にたちたいと思っています。

posted by サトウマリコ at 12:39| Comment(2) |

2010年05月07日

All we need is Love

本の紹介です。

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All we need is Love
著者 清水尚
発行所講談社
2010年2月18日第1刷発行

この本は写真集です。

掲載されているのは、子供がいるアメリカの家族の日常の場面。
ですが、彼らはアメリカでは(アメリカでさえ)マイノリティだそうです。
それは、親が正式に、あるいは事実上結婚を遂げたGLBT(ゲイ、レズビアン、バイセクシャル、トランスセクシャル)のカップルであること、そして生活を共にする中で、自然な流れで「子供」を受入れたいと願い、養子、代理母、精子提供といった様々な過程を経て子供を迎え、「家族」となった人たちだからです。

少し前の記事「多様な価値観のひずみ」という文章の中で私はこう書きました。


***
今、大人の私は、ランドセルにしても、絵画にしても、これらのことについて、「へぇ!」と関心することができます。

でも、もし子供の頃に、図画の時間、みんなで外で花の写生をしていて、隣の子の絵を覗き込んだときに、実際とはかけ離れた色の花が画面いっぱいに広がっていたらどう思うだろう、と考えてみました。

口に出すかどうかは別として、心の声は多分「それは違う!」とか「それはおかしいよ」かもしれません。あるいは、「○○ちゃんってちょっと変…」と思ってしまうかもしれません。

それは、私の中に、「写生とは見たとおり描くもの」とか「花は暖色系である」などという思い込みがあるからだと思います。
***


大人になった私は、沢山の価値観を知り、隣の人の価値観を知って驚くことは少なくなりました。
だからこそ、カウンセリングをしている中で、利用者の方が、何かの「思い込み」に縛られて、身動きが取れなくなっている姿を客観的に捉えることも、少なからずできるのだと思います。

けれど、この本のレビューを見た時、そこにはまだ、私が「慣れていない」世界があるように思いました。
上の引用の中で言えば、子供の頃に、現実とは違う色で花を描いている友達の画用紙を覗き込んだ時のような感覚がするのではないか、と感じたのです。

私は、そこに、自分の知らないどのような世界が広がっているのか知りたいと思い、この本を買ってみました。
そして、写真を眺めれば、またひとつ新しい価値観を知ることができるだろう、感覚としてつかめるだろう、と思ったのです。

正直にいうと、それは思ったほど、すんなりとできることではありませんでした。

言葉で「多様な価値観」を尊重しよう、というような伝え方をする私でも、視覚的に違和感を感じてしまうのです。

それは、今まで見たことがない姿だったから。
男性のカップルに挟まれる子供。
女性のカップルと一緒に食事を取る子供。
逆に言うと、子供を挟んで、ぎゅーっと愛情を込めて抱きしめる、同性のカップル。
そして、意図してだと思いますが、子供は画面に入れず、純粋にカップルがハグしたりしている写真も必ず一家族に一枚は入っています。

私は、「視覚的に見慣れていない」この世界をもっと当たり前のように感じたくて、何日も傍らにこの本を置いておき、繰り返し写真集を眺めました。
そうすることで、慣れて普通のことに感じるかもしれない、と考えたからです。

しかし、何度ページをめくっても、立派な大人の男性たちが、くっつきあっている姿に「慣れる」ということはできませんでした。

そこで、私は、じーっとページを見つめました。
中でも一番違和感を感じたページ、男性のカップルが、よりそって、一人の男性は恥ずかしそうに顔を赤らめている、という写真です。
なぜ、違和感を感じるのだろう? そんなことを考えながらずっと見ていると、あることに気がつきました。

同性同士がくっついていることは見慣れないことだけれど、実はどのページにも、馴染みがある部分があったのです。

それは、目です。
お互いを慈しみ合うような瞳。
その部分だけを見ていると、なんの違和感もなく、すーっとここに出てくる家族の会話が聞こえてくるような感じがしてきました。

虐待の事件が増えていく中で、このような血の繋がりのない親子のほうが、純粋な絆で結ばれている場合もあるのではないか? そう考える方もいるかもしれません。
でも、私は、ここに切り取られた場面は確かに幸せそうに見えるけれど、きっと<血が繋がった>家族と<同じように>、時には喧嘩をしたり、行き違いがあったりと様々な葛藤もあるのではないか、あるいは将来そんな時が来るのではないか、そんな気がしました。

つまり、この写真集を眺める時に違和感が減ると共に、今度は当たり前の家族のように見えてきたのです。

実際には当事者でない私にはわからないことが沢山あるし、当事者であっても、一つひとつの家族には個別の物語があるのだと思います。


多分、私にはまだまだ「視覚的に見慣れていない世界」が沢山あると思います。
街を歩いているだけでは、出会うことの少ない人、職場、集団……沢山あると思います。
でも、もしかすると人間というのは、嬉しい、悲しい、楽しい、つらい……、いろんな感情は共通しているものだから、瞳を見れば、それまでに出会ったことのある誰かに似ている、と思えるのかもしれません。

いずれにしても、この本は、「All we need is Love」というタイトルを裏切らない愛情に満ちた眼差しが溢れている本です。
忘れていた何かを思い出されてくれるような気がしました。


見た目や形にとらわれず、本質的なものを見る目を養えるようになりたいものです。
posted by サトウマリコ at 15:39| Comment(0) |

2009年10月29日

The Giving Tree

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先日ふじの原木のことを書きました。
そのことで、コメントをいただいたり、何人かの方とメールや直接お話をしました。

そして、コメント欄にも書いた、私のどこかに影響を与えたと思われる「The Giving Tree」という絵本を先日読み返してみました。

これは、アメリカシカゴ生まれの、イラストレーターでもあるシェル・シルヴァスタインという作家の絵本です。この作家は他に「ぼくを探しに」という絵本でも有名な方です。

「The Giving Tree」、日本語版は「おおきな木」というタイトルで出版されています。



簡単にあらすじをお話しますと、ここにでてくる「おおきな木」というのはリンゴの木です。

このリンゴの木には、大好きな男の子がいます。もちろんその小さなぼうやもこの木が大好きで、毎日木のところにやってきて、遊んでいきます。

男の子は、木から落ちてくる葉っぱを拾い集め、王冠を作って王様ごっこをしたり、太い幹をつたって、木の枝につかまってブランコをしたり、リンゴの実を食べたり。。

そんな毎日を過ごす木は、とても幸せです。

描かれているのは植物のはずなのに、木と男の子の戯れる様子がとても自然に描かれているイラストがとても素敵で、その様子はまるで人間の親子が触れ合っているようにも見えます。

しかし、やがて男の子は少年から成人へと成長していき、木を訪れる日はどんどん減っていきます。

そしていつしか、たまに顔を見せた彼をみて喜んだ木が「遊んでいきなさい、私に登って、枝でぶらんこをして、私の実を食べて・・・」と語りかけると、「ぼくは木登りをして遊ぶにはもう大きくなりすぎたんだよ。それより、もっと楽しい遊びをするために、お金がほしいんだ」といいます。
木は、お金は無いけれど代わりに自分の実を持っていって換金するように伝え、少年は全ての実を持っていってしまいます。

<少年(訪れるたびに、青年になり、中年になり、歳をとっていく)>はこのようにして、何度か木の前に現れると、枝も、そして幹さえも持っていってしまい、最後には、木は「切り株」だけになってしまいます。



文中、木が少年に自分の「身」を与えるたびに、こう説明されます。

 And the tree was happy

けれど、とうとう切り株になってしまった時だけは、この文がつけ加えられます。

 but not really.



英文での本文中、木のことを三人称で表すとき「she」「her」などと、女性として表現しています。

この本は、一面では母親の子供に対する愛情について問題提起をしているようにも思えます。
もっと広げて考えると、親子に対する愛とは限らず、他人に対する愛の表現のしかたと考えてもいいかもしれません。

この本から「無償の愛」を感じる人がいるかもしれません。
あるいは「与えつづけることが人を育てるとは限らない」と思う人がいるかもしれません。

作者なりの主題の意図があったとしても、もとから考えさせることが意図だっとしても、本となってしまえば一人歩きしてしまいます。ですがきっとこれを読んだ多くの人は「愛って何?」というようなことを考えるのではないでしょうか。



ここからは、私個人の感想です。

この本は、まるで定点観測のように、木のいる場所から逸れることがありません。

木が少年を待つ間、少年は、どこでどのような経験をしているかわかりません。
時折現れる少年が、疲れた様子だったり、狡猾さを身につけていたりすることから、少年の人生を想像するのみです。



ここから、私は「見えない愛」の存在について考えます。

人生の中で、どんな人でも、自分にとってかけがえのない人、たとえいっときだとしても大事だと思える人とめぐり合うことがあると思います。

最初に出会うのが母親。
それから、自分にとって大事な人というのは、家族であったり、友人であったり、恋愛の相手であったり、師であったり、いろんな人との出会いがあると思います。

そして、どんな相手だとしても、一緒に過ごす時間の長さは決まっていません。

出会うことは確かなのですが、夫婦の離婚や死別で会えなくなる親子もいれば、卒業と共に別の道を歩む友人、恋愛や結婚を通してお互いを高めあい、事情があってやがて離れていく相手…。

また、一緒に暮らしていたとしても、昼はまるきり別行動のすれ違い生活で、相手が何を考えているかもわからない、という場合もあります。

それでも、自分の心の中に相手の存在が繋ぎとめられている、それは一体なんの力だろう、と私は思います。
わからないけれど、時間というものを飛び越えてなお廃れない強い愛がそこにはあるのだと思います。

もしそれが、愛ではなく別の何か、憎しみだったり、悲しみだったりしたとしても、その存在が心の中にある限り、<縁>といえるような何かがあるのではないでしょうか。

それから、もうひとつは、「見返りを求めない愛」について考えます。

私はこんなにしているのに、どうしてあなたはしてくれないの、というのは、恋愛でも夫婦でも友達でも、起こりうるコミュニケーションのパターンです。

それとは別に、とにかく無条件で相手にしてあげたい、という気持ちになることもあると思います。
それは無償の愛、ということになるのでしょうか。
でも、ただひとつ、どんな形であれ、相手にとって自分という存在がちゃんと認められているんだという感覚がほしい。
あるいは、二人の絆を表す象徴的な何かがほしい。たとえ、目に見えるものではなくても。

それだけは、見返りとして求めてもいいのではないでしょうか。

木は、少年から何も「与えて」もらっていないようにも見えますが、絵本のラストでは、そのことについて触れているように思います。



かなり長くなりました。
誰の心の中にもある、<愛>の欲求について、何か考えるきっかけになればと思います。
posted by サトウマリコ at 12:36| Comment(2) |

2009年02月19日

「夢をかなえるゾウ」のこと

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ジャンルはどうあれ、「ベストセラー」だから、という理由だけではあまり本を買うことがありません。
その私が、今多くの書店で平積みされている「夢をかなえるゾウ」という本を先日買って読みました。

この本は、ガネーシャというインドの大衆神をかなり親しみ深いキャラクターとして設定し、主人公に「変わるための課題」を次々と出していく、という話です。
ジャンルとしては、自己啓発本といってもいいかもしれません。

話題になってからはしばらく経っているのに、今頃読もうと思ったのにはわけがありました。

少し話は飛びますが、私は心理学には潜在的に興味はあったと思うのですが、20代の頃はあまり意識していませんでした。
それでも、時々気持ちがモヤモヤしてくると、一般向けに書かれたやさしい心理学関係の本を手に取ることがありました。

<心を休ませる方法>とか、<○時間で元気がでる方法>とか、<○○の心理学>とか、<他人に操られないようにするには>とか、そういう感じのものです。

でも、ある時期から、興味を惹かれてもなるべくそういう本には手を伸ばさないことに決めました。(今は参考資料として入手することはありますが)

なぜかというと、読んだその時は納得できるような気がする。
でも、しばらくたって、その本の表紙を見て「何が書いてあったっけ?」と思い出そうとしても、よく覚えていないし、本を読んだことで何かが変わったという実感が持てないことに気づいたからです。

そして、自分には本で知識を得るよりも、実践的に覚えるほうが向いているのでは、と考えたのです。

毎日が目まぐるしく、時間はとても貴重なものに思えましたので、本を読むより、目の前にある仕事や人間関係の中でより多くの経験をすることを優先しようと考えました。そのほうが、何かを学び身につけることができるだろう、と思ったのです。

話は戻りますが、先日、何かの書評欄に、夢をかなえるゾウの著者水野敬也氏のインタビューが載っていました。
氏は、「今まで多くの自己啓発本を読んできたが、何も変わらなかった」自分がいたことが、この本を書いたひとつの理由である、というようなことを語っていました。

そこに共感したことが、買ってみる気になったきっかけだと思います。

正直、読み始めてすぐに「おお!」と思ったわけではありません。

変わりたいと思っている、でも、長年思い続けているだけで実際には何も変わっていない若いサラリーマンである主人公に、ガネーシャが最初に出した課題は「靴をみがく」こと。

ぶつぶつ言う主人公に妙にくだけた関西弁でガネーシャは「自分を支えている商売道具を大切にすること」「人のいうことに聞く耳をもつこと」の大切さを説きます。

こんな調子で、次々と課題が出されていくのですが、一日で読みきれる量ではないので、本を読み終わるまでの何日かかります。そうすると生活をしながらガネーシャの言葉が甦ってくるのです。

結果として、普段の<行動>が少しだけ変わるんですね。
そこがひとつ重要なのだと思います。

おかげで、前日に次の日のことを考えて何かをするとか、いつもより丁寧に掃除をしてすっきりした気持ちを味わうとか、大体できていたことでももっと気持ちよく実行することができたり、大きなことでいえば仕事に対する考え方も以前より少し変わったような気がします。

この時点で少なくとも読むだけではなく行動に移すことが大事だと考える著者の意図は成功していると思います。
でも、これだけではまだ、こういった類の本を読んだ直後にはあることかもしれませんので、ブログにこの本の話を書こうとまでは思いませんでした。

わざわざ書こうと思ったのは、実は最後のほうでガネーシャのセリフに、ちょっぴり泣かされてしまったからなのです。

ガネーシャの出す課題に次第に真剣に取り組むようになっていった主人公ですが、いつまでも<何かを頼りにしている>のでは、本当の意味で変わることはできないと考えたガネーシャは主人公の前から消えていきます。

その時のガネーシャの別れのセリフの一部。

***

  「成功しても、成功せんでも、気張って目標に向って努力しても、つい誘惑に負けて寝てしもても、ワシ、自分(※注)のこと好きやで。自分、覚えているか? 会社から白玉あんみつ持って帰って来てくれた時あったやん? あん時ワシ、やばかったもん。泣いてまうかと思ったもん。泣いてまうギリギリまで来とったもん」 (※注 自分=相手(主人公)のこと)

***

多分、ここがストンと落ちたのは、私がカウンセリングで触れるクライエントの方々とのやりとりの中で感じることに通じているからだと思うのです。

多くの人が各々の価値観を持っていて、目指すゴールは違うわけですが、共通しているのは、「もっともっと(がんばらなくちゃ)」「今のままじゃダメ」と感じている場合が多い、ということです。

そして、そのことを自分に向けてだけではなく、他人に対しても強く求めていることがあります。

向上心があるからこそ、理想が高いからこそ、焦りを感じ、不安を感じます。人と比べて落ち込んだり喜んだりします。
そんなことを通して、人は高い山に登っていくのかもしれません。そのこと自体は素晴らしいことだと思います。

でも、時々大事なものを見落としたまま、ずっと先のゴールだけを見て焦っているのではないかな?と思うことがあるのです。
大事なもの、というのは、うまくいえませんが、きっとそこにあることの有り難味に気づきにくい、でもなくては生きていけない、酸素のようなものかもしれません。

そのことをこのガネーシャのセリフが表しているように感じたのです。

ちなみに、本の締めくくりには主人公の未来が示唆されています。それもまた、ほっとできる読後感になりました。


……長くなりましたドコモポイント
そんなわけで、最近「やられた〜」と思った一冊をご紹介しました。



posted by サトウマリコ at 12:34| Comment(0) |

2007年02月13日

絵本の紹介です。

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高校生の頃のことです。

その頃、街中で高い建物といったら、12階建ての県庁か、ちらほらと姿を現し始めた高層マンションでした。
そのマンションのモデルルームだったのか何だったのか、今は思い出すことができませんが、ある日道を歩いていると高層階の部屋を覗いてみていいですよ、というような案内の張り紙があり、友人たちとエレベーターで昇ってみることにしたのです。

何階だったのかも覚えていませんが……、鮮明に覚えているのは、窓の外を見下ろしたら、道路を歩いている人がミニチュアサイズになっていて、ぽつんと小さく見えたこと。
さっきまでは、自分たちもあの中に混ざって歩いていたんだなあ、と思うと不思議な気分になりました。

多分、その日の私は何か悩みを抱えていたのだと思います。でも、そうやって小さくなった人間を上から眺めていたら、自分の悩みもちっぽけに感じて、悩んでいること自体がつまらないことのように思えたのです。
もちろん、下に降りて歩き始めたら、悩みが消えてなくなっていた…というわけではありませんでしたが。。
悩みの大きさが変わる感覚が新鮮だったのです。

そんな感覚を思い出させてくれるのが、バージニア・リー・バートン作、岩波書店刊「せいめいのれきし」という絵本です。
絵本としては、クラシックといわれる息の長い作品群のひとつで、多くの書店や図書館の児童コーナーに置いてあるのではないでしょうか。

私がこの絵本を知ったのは大分前のことですが、最近、ふとした拍子に思い出して「そうだ!あの絵本は買っておかなくちゃ」と書店に走ったというわけです。
なぜか、一家に一冊はあったほうがいいような気がしてドコモ提供

この絵本は、タイトルのとおり、地球上に生命が現れてから現在までの歴史を科学的な事実にもとづいて描かれた物語です。
多くの絵本のように、起承転結があって、ハラハラ、どきどき、という山場があるわけではなく、淡々と地球の歴史、生物の歴史がバートンの力強く魅力的な絵とともに描かれています。

そして、最後にわかることは、地球の歴史の長さと、自分という生命体の生きている長さがどれくらい違うか、ということ。
そして、自分が生まれるまで続いてきた生命の歴史、逆にいうと、その長い生命の歴史の一番先に自分がいるのだという実感を味わうことができるのです。

冒頭の、自分の悩みが小さくみえた、という話と共通する感覚もあります。
たとえば、どんなに長く苦しい人生に感じたとしても、考えようによってはあっという間の出来事なのかな、というように。
でもやっぱり、これも冒頭の話と同じことなのですが、自分にとっては、あっという間でもないし、悩みの渦中にいる時は、どうってことのない悩みなどないわけです。

ただわかるのは、大きな流れに包まれて自分がいる、ということでしょうか。
淡々と流れる時間、決して戻ることのない時間をどんなふうに生きていこうか、そんなことを考えさせられる本です。

私は大人になってから読みましたが、子供の頃に見ていたら、また違った感じがするのかもしれません目
posted by サトウマリコ at 00:11| Comment(0) |

2006年11月01日

ナゲキバト

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本の紹介ですかわいい

「ナゲキバト」 ラリー・バークダル著 片岡しのぶ訳/あすなろ書房

私にはあまり祖父母との想い出がありません。
子供の頃、父の田舎に遊びに行って、緑や土の匂い、川の水の感触、ゆったりとした時間の流れ…そういったものは味わえました。今思うとそれは本当に幸せな時間でした。でも長期休みに行くのでは、自分は祖父母から見ると大勢集まった孫のうちの一人。優しい笑顔は思い出せても、どんなことを話したのかはよく覚えていません。

この本の主人公、ハニバルは、9歳の時に両親を交通事故で亡くし、父方の祖父の家に引き取られます。そこでの「おじいちゃんとの二人暮らし」は、傷ついた心を癒すだけでなく、生きるために大事なことをハニバルに教えてくれます。

この物語は、大人になったハニバルの視点から、子供の頃の濃密なある時期を思い出の記として描かれています。
たまにしか祖父母と接することがなかった私は、一緒に暮らす中での二人の触れ合いを新鮮な気持ちで眺め、一気に読んでしまいました。

例えば、ハニバルは友達の影響を受けて、「嘘」をつくことを覚えてしまいます。そんな時、祖父は嘘はいけないということをハニバルに理解させるために、直接的な言葉でしかるのではなく、ハニバルに嘘をつき続かせながら、一呼吸置いて結局なぜ嘘がいけないのかということを覚えさせます。

長年の経験があるからこそ持てる、ゆとりとゆるぎない信念が、「何が大事なのか」、「なぜ大事なのか」ということを少年の心にしみこむように教えていきます。

表題となっているナゲキバトは、狩にあこがれるハニバルが撃ってしまった鳥のことです。撃ったあとで、二羽のひなが近くの巣で親鳥を待っていることに気づき、ハニバルは愕然とするのです。
そして、ハニバルは祖父から、片親だけで二羽を育てるのは無理だから、一羽を自分の手で殺すように命じられ、呆然とします。一体どちらを選べばよいのかと……。

この体験を通して祖父がハニバルに伝えたかったことは、本全体を通して貫かれている人間の存在を超えた大きな愛情というものに通じていくのではないかと思います。

この話の中では、祖父と孫という関係の中で語られていますが、どういう形にしても、人が生きるために大事なこと…脈々と人々が受け継いできたものを伝えてもらう場を、特に幼い頃に体験することは、本当に大事なことだと思いました。きっと、大人になって必要な時が来たら、その時の体験がふっと甦ってくるのではないでしょうか。それがあるかないかが、人生を大きく左右するかもしれません。


本書は児童書ですが、大人にも「心を強く持てる、励まされる」と人気がある本で、初版から十年経ち、新装版がこの春出版されました。

おじいちゃんの語り口を味わっていただくために、私が気になった一節をご紹介します。

「祖父は、『わしら人間は、苦しんでいる者が出す音の量で苦しみの量をはかるんだね。もしも魚が痛がって泣き叫ぶとしたら、釣りをする人間の数はずっとへるだろう』と言った。
 チャーリーは釣り針にかかったマスのようなものだった。だまっていたから、彼がどれほど寂しい思いをしているか、だれも知らなかった。」

随所に、今現在の自分の生活や、日々のニュースを見て感じることに通じる「おじいちゃんの言葉」がちりばめられています。
なんだか懐かしくほっとするような、大事なことを思い出せてくれるような読み応えのある一冊でした本




posted by サトウマリコ at 11:30| Comment(0) |

2006年10月09日

秋の夜長に

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昨日、一昨日と随分寒い日でした。
目算を誤った私は、初秋の格好をして出かけ、とても寒い思いをしてしまいましたもうやだ〜(悲しい顔)

で、夜は今シーズン初の電気ストーブが登場。ほのかに暖かくまたしても「夜寝」をしてしまいました眠い(睡眠)

それはさておき、秋はなんとなくゆったりした夜を過ごせそうな気がします。
寒いから、いつもシャワーですませていたのをゆったり湯船に浸かったり、栗や果物を食べたり。。
皆さんはどんな過ごし方をされているでしょうか。

私は、夜仕事でPCに向かうことも多いのですが、合間をみて、リラックスタイムを持つようにしています。
その一つが読書かな。……といっても、これも仕事関係のものが多いのですが、好きな分野なので一応これもリラックスタイム。

県立図書館は10冊まで借りられるので、調子にのって、今回は8冊借りてしまいましたたらーっ(汗)
読めるかなあ。。。


今日は、本のご紹介をします。
佐野洋子作・絵、講談社刊「100万回生きたねこ」です。
子供の本のコーナーには、必ずといっていいほどある本なので、ご存知の方も多いかもしれませんが、私が大好きな本のひとつです。

私が読んだ絵本の冊数は、子供の頃より大人になってからの方が多いのです。一時ハマっていて、秋の夜長に毎晩5冊読んで寝る、という習慣がありました。もちろん、買ったのではなく、図書館から借りてですが。。

「よい絵本」ってなんだろう?という私の疑問に、その道に詳しい方が「理屈で説明するよりも、沢山読んでみればわかるから」と仰ってくださったのがきっかけです。
それで、一気に200冊ほど読みました。
といっても、選定された絵本なので皆よい本ばかりだったのですが。。

子供のための本に「よくない本」ってあるの?というそもそもの疑問点は、自分の中では解決できたような気がします。
確かに、数ある絵本の中にも「優れている」ものとそうでないものの違いはあるんだな、と感じました。でも、その基準は、すぱっと説明することが難しくもあります。

子供に対する愛情が根底にあるのが大前提ですが、必ずしも道徳的な筋書きが規準になるものではありません。強いて言えば、絵と文と本全体の雰囲気が融合して、よりしっかりとその世界に引き込んでいく力があるということでしょうか。

どんな本にも「伝えたいこと」があると思いますが、絵本はオブラートに包むように、優しく伝えてくれます。そして、読む人の数だけ伝わり方が違ってくるのも面白いところ。

なので、「100万回生きたねこ」についても、あまり解説はしません。とにかく、何か大事なものをそっと教えてくれるような、そんな本だと思います。

絵本は奥深いです。子供の頃にあまり読む機会がなかった人は、大人になってから読んでみるのもいいと思います。そのうち、自分でも作りたくなっちゃうかもドコモ提供
posted by サトウマリコ at 11:50| Comment(0) | TrackBack(0) |