東日本大震災が起きてから、もうすぐ1カ月になろうとしています。
今回書こうと思ったのは、大切なものを失ったことについてです。
大切なものというのは、「人」「仕事」「物」「何かとの関係性」「何気ない日常生活」など、自分にとって大切だった、あるいは失って初めて大切なものと気づいた、さまざまなものがあります。
今回のように、失った原因が自然災害という場合、その数が多ければ多いほど、共感し合える場合が多いかもしれません。
また、自分が体験しなくとも、誰かの体験を我がことのように感じていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。
ですが、厳密にいえば、身内を亡くした人と、家を失った人、仕事を失った人、そのどれもが同じ気持ちではないはずです。
身内を亡くした人でも、親を亡くした人、配偶者を亡くした人、子供を亡くした人で想いは違うかもしれません。もちろん、哀しい、つらい、という気持ちは充分に想像し合えるかもしれません。
さらにいうと、失った相手や、対象が同じだからといって、失った、という気持ちをひとくくりにすることは、できないのです。
つまり、どんな場合でも、その人にとって、固有の、その人だけの「想い」があるはずなのです。
今回は、「震災 心のケア」というカテゴリに入れましたが、この「喪失」という体験は、実は、自然災害がなくとも、私たちの日常と隣り合わせにあります。先ほど書いたように、自然災害という形で一斉に起きたのではなく、個人個人が突然に出合っているのを、他の人が気づかなかったり、ニュースとして届いていないだけです。
だから、本来はカテゴリとしては、「ココロ」であるのですが、多分、震災がなければ、この記事を書かなかったと思います。これまで、喪失に対する心のケアはカウンセリングルームという密室で行うこととして、ブログに書く必要はないと考えていたからです。
でも、今は沢山の人がこの「喪失」という体験によって、苦しんでいるのではないかと思い、書くことにしました。
震災によって大切なものを失った方も、他の出来事によって、同じように喪失の体験をした方にも読んでいただけたら、と思います。
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私たちは、普段、「行動」しながら、何かを「感じ」たり、「考え」たりしています。
行動する時は、目の前に何かの目的があると思います。
仕事でも、買い物でも、遊びでも、何かをしようと体を動かしているでしょう。
同時に、私たちが「心」というような概念を持っている部分でも活動をしています。
もしも、行動の目的が、仕事である場合、しかも頭をフル回転するような場合、私たちの心はそのことに集中しています。
でも時々、頭に余裕ができた時…単純作業、毎日の習慣、考えなくても体が動くような時、周りに人が居らず一人になった時、そんな時には、皆さんの心はどんなことを感じたり、考えたりしているでしょうか。
おそらく、その時その時で、楽しいこと、嬉しいこと、気がかりなことを、想像したり、回想したり、漂うようにいろいろなことは浮かんでは消えていくのではないかと思います。
それが内面の旅です。
私たちは、日常生活の中で、仕事や役割を持っていることが多いと思います。これは、具体的なお金を稼ぐ仕事、という意味だけでなく、ある時は、家族の一員としての役割だったり、人間関係の中での役割でもいえることです。
その役割をこなしている時は、ある程度、自分をその役割に合わせているのではないでしょうか。
これらを厳密にわける必要はないのですが、ある程度、「公的な自分」と「個人としての自分」があり、毎日の生活を送る中で、この二つを行ったり来たりしながら進んでいく、とイメージしていただければ、と思います。
さて、人の世は無常だといいますが、決して同じ状態が続くわけではないとわかっていても、私たちは、突然に、あるべきはずのものを奪われるとショックを受けます。
最初は、信じられない、と思うかもしれません。
実感がわかなくて、涙もでないかもしれません。
けれど、次第にそれが現実に起こったことなのだと、受入れざるを得なくなります。
それは、つらい「作業」かもしれません。
「作業」というのは、「感じる」ことです。
自分のそばからその存在がなくなったことを、悲しみ、どうしてそんなことが起きたのかと怒り、どうしてもっと大切にしてあげられなかったのか、と自分を責めたりします。
もう、戻らない、とわかっていても、いろいろな感情がかけめぐり、どうしようもなくいたたまれない気持ちになる、そういう作業です。
心理学には、この作業に「グリーフワーク」もしくは「モーニングワーク」という名前がついてます。日本語にすると、「喪の作業」「悲嘆の仕事」などといわれます。
この作業には、続きがあります。
さまざまなつらい感情を持ちながら、そこから逃げずに向き合っていくのです。
ある人は、故人の持ち物を整理するかもしれません。
ある人は、自分の気持ちをひたすらに文章に綴るかもしれません。
ある人は、信頼できる相手に話を聴いてもらうかもしれません。
ある人は、旅に出るかもしれません。
ある人は、絵を描いたり、音楽を聴いたり演奏したりするかもしれません。
そして、嘆きの気持ちを充分に表現できた時、苦しかった心に回復の兆しが見えてきます。
忘れるのではなく、その存在と出合ったことを心から愛おしく思える、そんな境地になれるのかもしれません。
この作業をしないとどうなるでしょうか。
苦しさから逃れる方法はあるかもしれません。
仕事に夢中になって、何も考えないようにすること。
お酒やギャンブルや他の何かに依存すること。
悲しむことは弱いことだと思い、自分の本当の気持ちに向き合わないこと。
でも、逃げたつもりでも、癒されていない心の傷は何年も何年も、消えてなくならないようです。何かのきっかけで、簡単に、抑えていた感情が決壊するかもしれません。どこか自分の心に歪みを感じるかもしれません。
これまで、戦争や災害の経験をした方に、どうやって乗り越えたのか、どんなにつらかったのか話を聴きたい、事実を知りたい、と体験者に乞う人がいます。今回は私もその一人でした。
しかし、総じて、口が重いように思います。話をしてくださったとしても、それが決して、易しいことではないことが伝わってきます。
一体、自分にとって大切なものを失うという体験は、本当に乗り越えられるのか、と思ったりもします。
だけど、口が重いからといって、乗り越えていない、ということではないような気がします。
自分にとって、大切な思い出だからこそ、人には簡単に話したくない場合もあるのではないでしょうか。
グリーフワークについて、書きましたが、100人いれば100通りの向き合い方があると思います。
私の書いたことは、そんなことがあるのだと、心の隅においてくださればと思います。
無理をすることはありません。自分のやり方で、いいのだと思います。
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このような作業を、内面で行っていく段階にきている方が多くいらっしゃるのではないかと思います。
しかし、それと平行して、日常生活も戻りつつあります。
4月は年度の始まり。ただでさえ、環境の変化が大きい時です。
そんな時に、自分の役割という公的なことをこなしながら、「内面の旅」がうまくできるかどうか、私は心配しています。
グリーフワークの只中にいる方は、周りの人の言葉に敏感になっている場合が多くあります。
何気ない励ましが、相手を傷つけていないか、周りの方が気づかうことも大切だと思います。
落ち込んでいる相手を見て、なんとかしてあげたい、と思われるのはよくわかりますが、自分の一言で簡単に相手が元気になると思わず、現実と合わない励まし方(例:「私もそうだったよ」→「でも自分は違うんだ」 「またいいことがあるよ」→「でももう失ったものは戻らないんだ」 「元気出して」→「出せたら苦労しないよ」)は、考えたほうがいいかもしれません。
ではどうすればいいか? 相手がどんなことを感じているか、ただ一緒に感じ、そのことを伝え、様子を見守り、必要だという時がきたら、すぐに手を差し伸べられるように、時間をかけてつきあっていくことではないかと思います。
それから、もうひとつ。絶望のあまり、うつ状態になってしまうことがあります。それは、ある意味人間として自然なことなのかもしれません。
ですが、「うつ病」となると、脳の生体的なメカニズムの問題ですので、先に書いた感情の作業は妨げられますし、まずは休養と薬物治療で、体の状態を楽にしてあげることが必要です。
眠れない状態が長く続いたり、ものが食べられない、思考能力が鈍くなる、体が重たく動かせない、などの状態が続く時は、迷わず精神科や心療内科を受診してください。
周りの人が気づいた時も、受診をお勧めしていただければと思います。
私も、日本という国で起きている見えない痛みを、一緒に感じられるよう、そして、自分にできることを考えながら日々を送っています。
posted by サトウマリコ at 14:07|
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