2011年05月07日

震災 心のケア11「人間関係のコツ」

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人間関係の悩みは、誰もが少なからず経験することかもしれません。

例えば、関心のある相手が、メディアの向こう側の有名人だったとすると、どんなに自分がその人のことを知っているつもりでも、直接的な「関係性」は機会がなければ生まれません。

人間関係の悩みは、多くの場合、身近な人との間で起こります。
それは、家族、親戚、職場、というような傍目には協力し合う関係によって結ばれていることが多いです。

普段からこういった内容でのカウンセリングは行っていますが、あえて「震災 心のケア」で取り上げました。それは、今回の災害によって、それまでのコミュニティが変化し、最初は「助かった」という気持ちを重ね合わせることができていたのに、時間が経ち、新たな問題に取り組まなければならない時期になったことによって、人間関係の悩みも出やすくなる時期ではないかと思ったからです。

被災地での避難場所のコミュニティ、これまでの通常業務とはかけ離れた「前例のない仕事」をする職場のメンバー、被災者が身を寄せ新たにメンバーが加わった被災地外の家族、被災地を支援するために新たに立ち上げられた組織等々、この2カ月弱で多くの動きがあったと思います。

そして、それぞれが立ち向かわざるを得ない、不安定さを少なからず抱えています。


ここでは、具体例を出すことは難しいのですが、「身近な人」とのトラブルやイライラが起きる時に、陥りがちだといえるのは、近い距離にいるからこそ、考えや行動が「同じであるはずだ」「同じでなければならない」という思考に<いつの間にか>なっていることが多いということです。

自分が正しいと思ったり、よいと感じたものを誰かに同意してほしいというのは、自然な気持ちだと思います。

ただ、現実には人は一人ひとり違います。

心に響く、「言葉」も「行動」も「考え方」も「音楽」も「絵」も「スポーツ選手のプレイ」も「食」も……、「好き」から「まあまあ」「嫌い」まで、様々なのが自然な姿です。

そう考えると、自分がいいと思ったことでも、他人に対しては少し遠慮がちになるくらいがちょうどいいのではないかと思います。
それでも意見をひとつにしなければならない時には、感情的にならずに、相手に理解してもらう努力をすること、相手を理解する努力をすることが大切になるのではないかと思います。

それでも、問題が起きた時、どうすれば解決するのか。
答えはひとつではありません。

真っ向から対立する人もいれば、口をきかなくなる人、やんわりと距離をとる人、他にも別のやり方を選ぶ人がいると思います。

時には苦しい想いをすることもあるかもしれません。それでも、人間は、これまでコミュニティというものを無くしてはきませんでした。
きっと、これからも人間同士の関係は、いろいろな過程を辿りながらも、時間の流れとともに自然に変化し続けていくのではないかと思います。

もともと「人」は違うもの。まずはそこに立ち返ることで、気持ちのゆとりもうまれてくるかもしれません。

posted by サトウマリコ at 10:08| Comment(0) | 震災 心のケア

2011年04月22日

震災 心のケア10 「助ける側の心理・助けられる側の心理」

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普段の生活の中で、多くの場合、私たちは「お互いに」助け合って生きています。

意識せずともそのような互恵の精神は、幾種類かの動物も含めてもともと備わっているようで、「助けてもらったら、お返しをする」、「助けてあげたのだから、お返しをもらう」のが当たり前という暗黙のルールの中でやりとりをされ、もし均衡が破られた時には、容赦ない形で自分に跳ね返ってきたり、逆に、助けられる一方である立場の方にとっては、精神的に自尊心に関わる問題となってくる場合もあります。

しかし、非常時の今は、その「お互いに」という条件を越えて、何の見返りを求めることなく「助けたい」という気持ちに駆られている方、それを実際に行動に移している方も多くいらっしゃいます。

それは、人間が、協力しあって生きる生き物だから、という説もあります。
「自分が犠牲になってでも、誰かを助けること」、これも互恵の精神にひけをとらず、私たちの本能のどこかに組み込まれているのではないか、と思われてなりません。
そうとしか思えないエピソードは、震災後、メディアからいくつも流れてきます。





今は、多くの方が、これまで脈々と続いてきて、これからも続いていくだろうと信じていた平和な日常生活が一変し、避難生活もしくは不便な生活を強いられています。

「助けが必要だ」というニーズも、「助けたい」という気持ちも、溢れかえっている状況ではないでしょうか。

このニーズと、実際の援助が、ぴったりと合うとよいのですが、そこに至るまでには、少し道のりがかかる場合があると感じています。

例えば、「東北の人は我慢強い」というような、地域の特性を耳にすることがあります。
学問的にいい切ることはできませんが、厳しい気候や、第一次産業を主としている地域では、簡単に弱音を吐かず、できることは自分でする、安易に人に助けを求めない、しかし、相手のことを察して助け合う、という文化があるようには感じます。
また、東北の人は無口で何を考えているかわからない、とか、よそ者には警戒心が強いが一度仲間になると人情に厚いなどという話を聞くことがあります。
地域によっては、かなりお人よしで親切だ、というエピソードも聞きます。

国レベルでも世界レベルでも、出身地域だけで性格をひと括りにできないように、一概に決めつけるのは難しいと思いますが、確かに、東北に住み、時に県外や他の国の人と触れ合う機会を持ってきた者としては、頷ける部分はあります。





そこで、少し心配なのが、「助ける」ことに関する、ニーズと援助のミスマッチです。

例えば、助けてほしい人が、素直に「何々が足りないのでこれをください」と言い、助けたい側が、その言葉をキャッチして、それを届けられたらうまくいくと思います。


ミスマッチのひとつは、助ける人が遠慮する場合です。
本人は遠慮と思っていなくて、本気で大丈夫、とか、自分でなんとかしなければ、と思っていることのほうが多いのではないかと思います。

実際に、私も今回、援助しようとして「大丈夫だから」と言われた経験がいくつかありますし、見聞きもしました。
助ける側としては、絶対に助けてあげたくなる状況だとしても、です。

この場合、もしも援助される側が、本当は援助をしてもらうことが長期的に見てよい状況なのに、遠慮するとしたら、その心理として、次のようなものがあるかもしれません。

それは、「人の手は借りない」という自分の状況に対する過信や、自分だけが楽になることについての周りの人に対する罪悪感や遠慮、それと最初にお話しした互恵の精神からくる「ギブ&テイク」ではなくて、どう考えても「テイク」のみになってしまうことへの抵抗感などです。

いつも人を頼らないことを当たり前としてきた人は、助けてもらうことに慣れていないのかもしれません。
でも、生きてこそ、後々、世の中に返すことで「ギブ」ができるはず。
必要なものは必要だと、ありがたく受け取ることも、相手に対する「ギブ」になるはずです。

ネット上の情報交換の場で、「何度も足を運んでいる、ゆかりのある山村の被災地(地域)に行くのだけど、何度きいても『大丈夫だから、間に合ってるから』としか地元の主婦たちは言ってくれない。実際には何が足りないのか教えてもらえませんか」という問いに、地元のネットユーザーが野菜や生鮮食品など具体的に教えている、というやりとりを見かけました。

私は、その支援者の方にも頭がさがる思いでした。
「はっきりと気持ちを言うことを美徳としない文化」では、「相手がいらないと言っているのに押し切ることは失礼なのではないか」、と身を引いてしまう場合もあるように思うからです。
結局、もらえば助かるのに、せっかく善意の人がそこにいるのに、やりとりは行われずに終わってしまいます。このような場合は、押して押して、受け取ってもらう、ということが正解といっていいような気がします。


逆に、本当に間に合っていて、頂く必要がないのに届く、若しくは、ニーズとは合わないものが贈られる、ということもあるでしょう。ものではなく、いろいろな形での支援もあると思います。
この場合、頂くほうとしては、せっかく好意や善意で送ってくれたのだから、と相手を気づかってしまう、ということもあります。


支援する側が、相手に何をどう支援するかという見極めは、本当に難しいことだと今回あらためて感じています。それでも、その時その時、目の前の相手を見ながら、自分で考えて行動してみることで何かが動くのは確かだと思います。

また、受け取る側も、この非常時ばかりは、遠慮せずにはっきりと気持ちを伝えることが大事ではないかと思います。
もしも、そこまでしてもらう必要はない、と本気で思った時には、「本当にありがとう。でも、今は大丈夫だから、気持ちだけありがたく受け取るね。必要になった時はお願いするからよろしくね」と伝えれば、相手も安心するのではないかと思います。

もちろん、必要なものがあったら、誰かに勇気を出して話しかけてみましょう。
「必要なもの」は、物資かもしれないし、話を聞いてもらうことかもしれないし、いろいろな情報を提供してもらうことかもしれません。自分の代わりに何かをしてもらうことかもしれません。時には、少し休みたい……心や体が限界にきていることもあると思います。そんな時も誰かに声を出して伝えることから、何かが動くかもしれません。
以前から言っていることの繰り返しになりますが、支援者や公務を遂行する方(しばしば被災者でありながら同時に支援者・現場で仕事をする立場である方がいらっしゃいます)の強制的な休養はとても大事です。交代制にして休まないと、長期にわたる活動を乗り切ることは難しく、新たな犠牲者を出しかねません。
ある組織では、トップの方から、交代制で休むことを提案され、順番に休んでいると聞きました。リフレッシュしてまた頑張る。もしそれが可能なら、無理をして周りに遠慮して皆が頑張り続けるよりも、そのほうが効率もずっとよくなるのでは、と思います。





ここまでは、個人と個人、あるいは小規模な人数でのやりとりを想定して書いていました。
もっと大きな単位では、避難している人たち(避難場所の大きさや、自宅で避難しているかに関わらず)に対する行政の支援があります。

さすがに、行政に対しては、「互恵の精神」ではなく、役割として当然と思うのか、大きな声で訴えている人もニュースなどでは目にします。

実際に生死に関わる域に近いところで、助けを求め、それを声に出しているのに、必要な支援が届いていないという場面を見るのは、切ないものがあります。

これは、気持ちというよりも、情報と物理的な事情によるミスマッチではないかと思います。
目に見えない混乱に、ぶつけようのない怒りに駆られている方もいらっしゃると思います。
少しでも早く、行政の流れが整い、スムーズに必要なものが必要な人のところへ届くよう、受け取るべき人が支援を受け取ることのできるよう、祈るばかりです。


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posted by サトウマリコ at 13:39| Comment(0) | 震災 心のケア

2011年04月20日

震災 心のケア9 「心の不調・受診の目安」

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これまで、心の病というものに縁がなかった方も、当事者・周囲の方含め、関心を持たざるを得ない状況の方がいらっしゃるかと思います。

簡単ですが、「うつ」のことについて、説明したいと思います。

「うつ」は、「一過性の憂鬱な気分」とは違います。

何かの出来事によって、気分が憂鬱になるのは、自然な反応です。その場合は、時間の経過によって自然に回復していくと思います。

「うつ」は少し違います。

大まかに、「一時的なうつ状態」、「神経症レベルのうつ」(この段階については、名称、診断について、様々な見解があります。医学の専門ではないので、説明は割愛させていただきます)、「うつ病」があります。

症状は人によって違いますが、私の場合は、次のような症状がいくつかあり、2週間以上続く場合、心療内科や精神科の受診をおすすめしています。


・寝つきが悪い、眠りが浅い、早く目覚めて眠れなくなる、いつもより睡眠が多いなどの睡眠の変化がある
・食欲がない、食べてもおいしいと感じないなどの食に関する変化がある
・今までに経験したことのない落ち込み・気分に関する違和感がある
・朝起きること、顔を洗うこと、お風呂に入ることなどを億劫に感じ、日常生活に支障がでるほどの極端な意欲の低下がある
・新聞やニュース、仕事の書類や人の話が頭に入らない
・大好きだった趣味にすら関心が持てない
・突然わけもなく涙が出る
自分の体を動かしているのが自分でないような不思議な感覚がある
・疲れがとれない、体が重い、だるい、吐き気、頭痛など、様々な身体症状がある


診断の目安としては、他にもあると思いますが、参考にしてみてください。

あまり、心療内科や精神科に馴染みのない方もいらっしゃるかと思いますが、受付や待合室の雰囲気としては、他の病院と特に大きく変わりません。
また、もしも受診した結果、治療の必要がなければそれに越したことはありませんので、少し心配だな、と思ったら、迷って行かないよりは、行って安心するほうがいいと思います。

なぜ、受診をお勧めするかというと、「薬で哀しみを癒やすことができない」といえるかもしれませんが、逆に「薬がなければ症状がよくならない」場合があるからです。うつ病は、脳で起きている神経伝達物質の変化によるものとされ、「気の持ちよう」や「プラス思考」や「気合」や「努力」では、症状は変えられません。気の持ちようで、思考や気分を変えられないこと自体が、症状なのです。

病院での治療を受けながら、平行してカウンセリングを受けられる方もいらっしゃいますが、もしも、治療が必要な状態だとしたら、まずはお薬を飲んで症状を落ち着かせることが優先です。

お薬を飲むことに不安がある方は、その内容を医師に伝えるとよいと思います。飲んでみて不安や疑問がある時も、その状態をそのまま医師に伝えると、必要に応じて調整していくことになると思います。その点が、風邪などで内科にかかる時に比べ、より気をつけておく点です。

また、病院はあくまでも、最終的に合うお薬を処方することが目的です。
精神科だからといって、すべての「気持ち」を受け止めることが可能かどうかは、別のことだということを頭の隅に置いておくとよいかと思います(診察時間には限りがあります)。もちろん、精神的な「アドバイス」はいただけると思います。

「投薬」、「休養」、そして次に必要があれば「カウンセリング」と覚えておいてください。
我慢しすぎると、治るのにも時間がかかる場合があります。
気になることがあったら、早めに、受診されるか可能な範囲で近くの医師に相談してみてください。



写真:大山(神奈川県伊勢原市)から望む富士
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posted by サトウマリコ at 20:50| Comment(0) | 震災 心のケア

震災 心のケア8 「様々な気持ち3・つらい気持ちを抱えている方へ」 

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前回も書きましたが、本震から1カ月以上が経ちました。

人により差はあっても、非日常を生きてきた私たちは、意識する・しないに関わらず、気持ちを張り詰めてきたかと思います。
生きるため、何かを守るために、自分ができることを考え、行動してきたと思いますし、今現在もその渦中だと思います。

ここまでの期間を振り返ってみて、とてつもない自然災害が起きたのにも関わらず、どこか実感がわかない、という感覚をお持ちだった方もいらっしゃるのではないしょうか。

人は、あまりに大きな出来事があった時、自分自身を守るため、頭ではわかっていても、心の奥深いところで事実を受け入れようとしなかったり、高揚して、いつもより少し行動的になったりすることがあります。

そして、それが永遠に続くわけではなく、「少し疲れたな」と思う時期、大きな哀しみをやっと受け入れ始めることがあります。そこで、どっと体にも心にも負担がかかってくることがありますので、そういったことがあるのだと覚えておいて、「まだまだ頑張れる」と思っても、ちょっと手前でブレーキをかけるくらいでいることも大事だと思います。

そういった感情の波は、何度か繰り返されることがありますが、私自身でいうと、今がその第一陣が来ているように感じます。

先にご紹介した、震災直後に絵を描いたという行動は、とりあえず心を落ち着かせるための回避だったかもしれません。

今、段々に、現実がどうなっているのか、どうなっていくのか、冷静に情報を受け止めるようになってきて、以前よりも実感が増しているように感じます。





様々な状況の人に、その立場に立って、少しでも役に立ちたいと思っていますが、今一番先に語りかけたいと気になっているのは、家族や大切な人と、この災害によりお別れをしなければならなかった方々のことです。

<その気持ち>は、どれだけのものか、と想像しながら書いています。
目の前には二度と現れてくれない相手に、心の中で何を語りかけていらっしゃるでしょうか。

私は今、カウンセリングの時に、クライエントさんのお話を聴きながら、「その時の」クライエントさんのお気持ちを想像するのと同じことをしています。

なぜならば、おそらく、今の段階で、カウンセリングを受けに来ることは物理的にも心情的にも難しい人が多いかもしれない、と思うからです。

自由にインターネットに接続する環境にない方も沢山いらっしゃる中で、私が書くことで何ができるか、と思いながらも、今、その方たちのそばにいない自分にできることは、せめて想像力を働かせ少しずつでもここに書くことしかないと思っています。

本当であれば、お一人おひとりの語りによって、私は何かを感じるべきなのでしょうが、今は、私がこれまでに経験した、人との別れと、私の周りの方が経験して私が知っていることを元に、お気持ちを想像するしかありません。

どんなにか、辛いことでしょう。

街が少しずつ動き始め、メディアが復興ムードになっていく中で、おひとりで哀しみを背負われている方もたくさんいらっしゃると思います。

完全に他人の心と一致できることは不可能です。
それでも、今はその気持ちを想像し、あの日降りかかった出来事を、共に哀しむことしかできません。

そして、これまでに同じような大切な人との別れを経験された方もふくめ、哀しい気持ちをでき得る範囲で共に感じていて、毎日を生きて役割を全うしていることに畏敬の念を持っていること、言葉に出さなくとも、あなたの周りに同じように思っている方がいるかもしれない、ということをお伝えしたいと思います。



写真:江ノ島の巨木
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posted by サトウマリコ at 20:25| Comment(0) | 震災 心のケア

2011年04月19日

震災 心のケア7 「様々な気持ち2・強さの内側にあるもの」

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3月11日の本震から、39日経ちました。

今、皆さんはこの期間を「長かった」と感じるでしょうか。「あっという間」と感じるでしょうか。「長かったような、早かったような……」と複雑に感じる方もいらっしゃるかもしれませんね。

大きな地震は誰の身にも起こったことですが、人によって、この時間の過ごし方、経験されたことに差があると思います。

まして、もともとの環境、性格、事情が違います。

このシリーズの最初の記事でも「様々な気持ち」をテーマに書きました。

時間が経った今、沿岸から約100キロほどの内陸にいる私は、仕事(カウンセリング)、テレビやネットや雑誌などのメディア、あるいは、友人などプライベートでの繋がりも含め、少しずつですが、直接・間接にいろいろな情報を肌で感じています。
少しは気持ちが落ち着いたと思っていても、生々しい話に、圧倒され、ショックを受けることも正直あります。

同時に、もともと人間は、個人の価値観が違うので、当たり前といってもいいのですが、震災という共通の天災を前にしても、個々人の「違い」があるのだと、あらためて感じています。

津波の被害を受けた人でも、既に仕事に復帰され、避難所から仕事場へと往復している方もいます。もともとの海の仕事へ戻れたことを、希望の光を感じながら、沖へと船を出しているように見えます。

果てしない復旧の仕事に従事されている方、地域のために、公務を遂行されている方もいます。
本心は、余震や津波におびえ、内陸への移動を希望している方もいらっしゃるかもしれません。
一方で、何があっても、地元を離れず復興させようと心から望んでいる方もいます。

また、未だに家族の安否がわからずにいる方も多くいらっしゃいます。
残念な結果を受入れようとしている方もいます。

家、仕事、大事な人を失った方が大勢いらっしゃいます。





先日、プライベートで、自分も家族も、本当に<命からがら>、助かった女性とお話ししました。

私はその方と初対面でしたが、いきなり避難先の温泉宿で一緒に露天風呂につかりながらお話を伺いました。

避難の時の様子を聴いている時、「さっきまで、言葉を交わしていた人が、振り返ったら波にのまれていたの」という場面では、お互いに涙を流しました。湯煙の中、汗を掻いた顔に流れる涙は、多分一生忘れられない光景として私の目に焼きつくような感覚がありました。それは、酷く感情的なものでなく、まるで汗を掻くのと同じくらい自然に流れ、他の水滴と同じように拭われたのです。

お風呂から上がり、部屋で4人で話をしました。
先ほどの女性は言いました。
「今は毎日が楽しい」と。避難する時、持って出てきたものは、避難所に一泊する(つもりだった)ための服や靴下だけだったけど、他に必要なものがあったかな?と思い返しても、何もないのだそうです。
「大事なものは心の中にあるから」といって、今は何でもあるのよ!と、クローゼットに入っている支援物資の服や衛生用品を見せてくれました。

今回の震災にまつわる話をひとしきりした後で、彼女は言いました。
「哀しいか哀しくないか、決めるのは自分だと思う」と。

ちょうど海外へしばらく移住しようかと思っていたところだったから、ものを捨てる手間が省けたわ!というセリフは、決して無理をしているようには見えませんでした。

強い、弱い、という決め方はあまり好きではありません。人の心は強くなる時も弱くなる時もあるのが普通だと思うからです。

でも、彼女のことを、私は自分よりも「強い」と思い、羨ましく思いました。

最後にわかったことは、彼女が生きてきた歴史がすでに彼女を強くしていたのだ、ということです。
単身南米に行き、身ひとつで現地の村々を回って公衆衛生の仕事をしていた彼女は、日本とはまるで違う文化を知っているのです。お風呂に1カ月入らないことなど平気なのだそうです。他にも語りきれない多くの経験をしてこられたのだと思います。

もともと慰めるとか仰々しいお見舞いといった立場でお会いしたわけではないので、友人としてお話しさせていただいたのですが、沢山の、自分の知らない生き方を知りました。同時に、幻想としての枠に捉われない生き方をする、少し少数派かもしれない仲間に会えた喜びも感じました。
最後に、いとまの挨拶をする時には、自然に「ありがとうございました」という言葉が出てきました。





誰もが、彼女のようであれ、とは思いません。
これからまた、少しずつ、様々な状況にいる方に、微力ながら、心のケアについての話をお伝えできればと思っています。

写真は、素材サイトさんから頂戴しました。撮影場所は栃木県の温泉だそうです。
posted by サトウマリコ at 10:47| Comment(0) | 震災 心のケア

2011年04月15日

震災 心のケア6 「自分を癒す時間を持つ・2」

続きです。

私はたままた震災の前に、「描く感覚」を取り戻しつつありました。
きっかけは、「描きたい」と心から思えるものが見つかったからです。

それは、「スケート選手の演技する姿」でした。

去年の2月、バンクーバーで行われた冬季オリンピックをテレビで何気なく見ていました。
その時の私は、三重県で手術を終え、自宅に戻ったものの、体力が戻らず、少し動いては横になって休まなければいけない状態でした。

横になって、情けない、心もとない気持ちで、することもなくテレビを点けると、その中で、いろいろな衣装をきたフィギュアスケートの選手達が演技をしていました。

綺麗な衣装を着て滑る、というのは、見た目には優雅で美しいスポーツだと思いますが、それは同時に、過酷な練習と精神の鍛錬の末に初めてその美しさを醸しだすことのできる、厳しいものであると思います。それだけに、選手、コーチ、振付師といったチームが産み出した演技は素晴らしく、人間の体と、スケート独特の動きから生まれる美しさに、自然に涙が出てくるほどでした。

その体験をしてから、フィギュアスケートの選手を描く、と思い至るまでに時間はかかりましたが、ともかく、久しぶりに描きたい対象を見つけた私は、まずは、線を描くところから、そして、徐々に人物のデッサンを繰り返し「らくがき帳」へと描く日々が始まったのです。

とはいえ、普段は仕事をしていますので、それは一日の終わりのほんの短い時間をとっての、小さな趣味でした。

でも、震災後のわりと早い時期、図らずも私には「時間」ができたのです。

初めは、その時間を仕事に当てようと思いました。私の仕事は、直接カウンセリングをすることだけでなく、資料を読んだり、書いたり、いくらでもすることがあります。
でも、少し思い直して、前回書いたように、「自分自身の心を落ち着かせること」も仕事だと思い、多少の後ろめたさと葛藤を持ちながら、約1週間は、用事以外は絵を描いていました。





鉛筆でのデッサンが形になってきた後は、色を塗る作業に移りました。
試行錯誤して、手描きの絵をスキャンして、パソコンで色付けをしていきます。

本当は、色も自分の手で塗るほうがいいのかもしれません。

でも、とりあえず今はその方法を選びました。

選んだのは、青い衣装を着ている選手の絵です。

今自分が欲している色は、「青」だと感じました。

そして、背景は「空」にしました。

毎日1枚のペースで仕上げていくうちに、自分の中に、ひとつの物語が生まれました。
青い衣装を着けて踊るスケーターの背景の空は、月夜から満点の星空へ、そして、時には虹がかかり、朝焼けの風景へと変わっていきました。

特に考えていたわけではありませんが、ライフラインが落ち着き、仕事も少しずつ戻ってきた頃、私は、絵を描くことに区切りをつけることにしました。
最後の一枚は、「朝日を浴びるスケーター」の絵となりました。

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自分のことを長々語るのは心苦しくもありましたが、お伝えしたかったことのひとつは、まず、「色」が感情を癒すことがある、という点です。

今回、私を癒してくれたのは、濃紺のようなはっきりした青色でした。

絵はしばらくご無沙汰していましたが、カラーセラピーをしているおかげで、「色で癒す」ということが、自分には抵抗なく入ってきたのだと思います。

色の意味についてですが、色彩心理学や各種のカラーセラピーで、この色にはこのような意味がある、とか、こういう時はこの色が助けになってくれる、などの理論があります。
実際の研究結果に基づくものであったり、古代から人間が自然に取り入れてきたものであったりします。

でも、もうひとつ、色には「個人的な意味」があります。

小さい頃に、いつも傍らにあったタオルケットの色が懐かしく特別な色である場合もあるでしょう。

なぜか、この色が落ち着く、というものがあるでしょう。

ある時期は、やたらとこの色の服ばかり着ていた、ということもあるかもしれません。


色の解説はできなくもないですが、今は、自分が手に取りたいと感じる色を手に取るだけでよいと思います。もちろん、興味がある方は、色の意味を調べてみるのもよいとは思います。


ちなみに、私が青を欲したのは久しぶりのことです。

ある時期、やはりこの色にとても惹かれていました。

その時の感覚と、今の感覚が似ているかと言われると、確かに似ている、と思います。


多くの語彙を持たない子どもは、絵を描き色を使うことで、感情を外に表すことができます。
それは大人でも同じことです。

誰にもうまく説明できない、その感情を、まずは自分が自分だけで大事に包み込むように、色を使って表現してみてください。

もしも、描きたいものが浮かばない時は、簡単な枠を描いて、その中を塗りつぶす「塗り絵」もお勧めです。


そして、他にお伝えしたかったことは、描き続けていると、知らず知らずのうちに、心の中の整理ができていたり、物語のようなものができてくる場合があるということです。

理屈で考えるのではなく、感情の深いところで、それらが進行している感覚があります。

こういったことが、癒しの時間のひとつとして、私が「絵を描くこと」をお勧めする理由です。


他にも、癒しの方法はいろいろありますね。
また、ご紹介できる時は、別のものを提案させていただくかもしれません。





子ども達が描きたい時は、どんどん絵を描いてよいと思います。

被災した子どもの、状況、年齢、個人の性格によって、いろいろな絵が出てくるかもしれませんが、それが例えば、明らかにストレスを感じているようなものでも、「感情を素直に出すことで、その感情と共存でき、乗り越えていく過程」だと思い、あまり心配しなくてよいと思います。
逆に、明るい絵を描いたことを誉めすぎると、明るい絵を描けば周囲が喜ぶんだ、と素直な感情を出せなくなるかもしれません。
「よい・わるい」というような、肯定・否定をせずに、一緒にその絵の世界を味わい共感してもらえると、子どもはほっとするかもしれません。



ひとつ、サイトをご紹介したいと思います。
長年、子どものアトリエを営み、色彩と心の関係について研究し、色に関するさまざまな事業を展開している「ハート&カラー」という会社があります。
スタッフの方々は、阪神・淡路大震災でも、現地の子ども達に、「絵を描く」という場を提供されました。子ども達は、表現や遊びの場に飢えていたかのように夢中で絵を描いたようです。

今回も、形は違いますが、東日本大震災のために尽力されています。

その中で、子ども達のために、心のケアに使える塗り絵をダウンロードできるサイトが用意されました。
スタッフの方の許可をいただきましたので、こちらに紹介させていただきます。

http://www.heart-color.com/archives/2011/03/post_100.html


塗り絵というと、子供用のキャラクターものの塗り絵か、少し難易度の高い大人の塗り絵などがありますが、この塗り絵なら、子どものみならず、大人でも気軽に使えると思います。

もし、環境が整っているようでしたら、ぜひダウンロードして、子どもさんにも、そして大人の方も使ってみてください。


また、「ハート&カラー」から普段発売されているセラピー用塗り絵は、私のカウンセリングでも、機会があれば利用しています。
画材とともに準備しており、カウンセリングの最中に作業し、最後にカウンセラーとともに語り合うというケアセッションもできます。
ご希望があれば、ぜひお声をかけてください。
posted by サトウマリコ at 22:26| Comment(0) | 震災 心のケア

2011年04月13日

震災 心のケア5 「自分を癒す時間を持つ」

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震災以来、生活が大きく変化した方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
一時的だった方もいらっしゃるでしょうし、また、これからの生活がどうなっていくのか見通しがつかず、不安を抱えている方もいらっしゃることと思います。

人の話、ネットや、テレビなどから、間接的にでも、日本の今の現状を見聞きし、被災された方を想うあまり、気持ちが沈んでいる方もいらっしゃると思います。

度重なる余震に、理屈抜きで恐怖を感じて神経が過敏になっている方もいらっしゃるかと思います。

今は、誰もが、多かれ少なかれ不安を抱えていて当然の時期だと思います。

そんな状況で、被災されていない方の中には、「元気な時は元気でいよう。今は自分達ががんばる時で、被災地の人はがんばらなくてもいい」とおっしゃる方もいます。

いろいろな考え方がありますが、私も、似たような考えを持っています。


震災直後、被害は大きくなかったものの、動揺しました。
そして、今、自分が何をするべきかと、考えました。

災害直後は、生命救助が最優先の時期で、まだ「心のケア」を受ける段階ではないのです。
体制が整わない、といよりも、被害を受けた方々の状態が、ある種、特別の状態で、ケアを受ける段階にない、ということです。
そして、続くガソリン不足、交通機関のマヒのため、私はしばらくカウンセリングの仕事はなく、家にいる日々が続きました。

その日々をどのように送るべきなのか、と考えたのです。


私の出した答えは、人より先に、自分の心のケアをすること、でした。

いつか、心のケアをする立場になる時が来る。その時には、しっかりと支援ができるよう、自分が元気になっていなければならない、と思ったのです。



いろいろと、立場は違うと思いますが、もしも心を癒す段階に来ていて、生活の状況がそれを許すのでしたら、どうか、自分で自分を癒す時間を持つことに意識を向けていただきたいと思います。

つらいこと、不安なことを、仕事や作業をすることで紛らすことはできます。人のために役に立つことをすることで一時でも充足感を得られることもあると思います。

でも、そのこととはまた別に、自分のためだけの時間を、少しずつ生活に取り入れ、時にはふと立ち止まって何かに夢中になる時間があってもいいのではないかと思います。

すでに、被災地にはいろいろな得意分野をお持ちの方が訪れている場所もあるようです。

例えば、スポーツや遊びや音楽といったものが、心を癒してくれているかもしれません。

誰かに癒されたり、皆で何かの活動をすることもよいことだと思います。


同時に、セルフケアということで、自分ひとりで何かをすることもいいのではないかと思います。
どんなものかは、いろいろ浮かびますが――、今回は一人でできる癒しのひとつとして、「絵を描くこと」をお勧めしたいと思います。

もちろん、好き嫌いがあるので、ちょっとでも興味があるようでしたら。


子ども達は、紙と画材を用意すると、わりとさっと取り掛かれるようですが、大人の方はどうでしょう。

子どもの頃は好きだった「絵を描く」という時間を、随分持たずに生活してきた方も多いのではないでしょうか。

そんな方に、久しぶりに絵を描く方法を紹介します。

私としては、「らくがき帳」がお勧めです。さあ、絵を描くぞ!と立派な用紙に向うより、なんとなく、ぺらぺらしていて、何枚も重なっているらくがき帳は、かなりハードルを低く感じます。
スーパーやホームセンターや100円ショップなどで売っています。

らくがき帳が手に入らなかったら、手元にある白い紙、なんでもよいです。

久しぶりに何かを描こうとする時には、ウォーミングアップをするといいようです。

鉛筆でも色鉛筆でもボールペンでも手近にある筆記具で、まずは、横に一本線を引きます。

続けてもう一本、また一本、5本か10本くらい、ただ横に線を引きます。

今度は縦線。同じように何本か引いてみます。

手が、段々思い出してきます。昔の絵を描いていた頃の感覚を。

今度は斜め線。右上から下に。

今度は下から上に。

丸、三角、四角……。

そうやって、慣らしていくと、多分、得意な線と、なんとなく難しく感じる線や形があることに気づくかもしれません。

そんな線や形でページが埋まると、大分手が筆記具や紙に馴染んできます。

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もし、手元に色えんぴつやクレヨンがあったら、色をつけてみるのもいいと思います。

何も考えず、なんとなく手が吸い寄せられた色を手にとって、四角や丸の中を塗ってみます。

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それをただ続けていくと……、段々に、手が「これを描きたい」なんて、動き出すかもしれません。

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ここまで来るのに、5分もかからないと思います。

思い出したら、あとは手の赴くままに。
気持ちの向くままに。





私は、絵が好きで、絵を描くことが好きで、絵を描きたいと思い続けてきましたが、毎日の忙しさに取り紛れ、何年も絵を描くことができませんでした。
そうしているうちに、描こうとしても、何を描けばいいのか、まったくわからなく、思うように絵が描けなくなっていました。

でも、上のようにしながら、寝る前の数十分時間を取るようになったのが、地震が起きる約1カ月前でした。

そして、「人より先に心を元気にするために」選んだ方法が、絵を描くことでした。
予定のない時間は、多い時には1日に10時間も、もくもくと描いていました。

続きます。
posted by サトウマリコ at 23:57| Comment(0) | 震災 心のケア

2011年04月12日

震災 心のケア4 「何度でもお互いの存在を認め合う」

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もし、家族と一緒に住んでいて、朝起きた時に、「おはよう」と声をかけたとします。
その時相手から、期待していた反応が返ってこなかったら、どんな気持ちになるでしょうか。

例えば、こちらを見向きもせず、「ああ……」と面倒くさそうにぼそっと呟くだけだったとしたら。

体調が悪いのかな?
機嫌が悪いのかな?
何か怒っているのかな?

そのように、心配したり、逆にこちらまで不機嫌になってしまうことがあるのではないでしょうか。

まして、例えば職場という、「挨拶」をすることが、仕事をする上で大切なマナーとされる場所で、相手から挨拶が返ってこなかったら。また、挨拶以外でも、何か自分が期待していた言葉をもらえなかったらとしたら。

程度の差はあると思いますが、それだけで、気分が滅入ったりすることがあるかもしれないですね。
逆に、ほんのちょっとした誉め言葉が、驚くほど、その日の自分の気分に影響することもあります。
言葉を交わすということは、短くて一瞬のことですが、相手とのコミュニケーションではとても大切なことです。

インターネットでのニュースからで、出典がわからなくなってしまったのですが、阪神・淡路大震災を経験された方々に、当時、どのようなことが支えになったのか、どのような言葉がうれしかったか、というインタビューをまとめた記事がありました。

その中のひとつで私がとても印象的だったものがあります。

その部分を引用します。

■今日もこんにちは〜

家が倒壊して、3カ月ほど学校などの避難所を転々としながら過ごしました。そのころまで、お金より何よりありがたかったのは、避難所の人たちとのあいさつです。

「今日もこんにちは〜。調子はどうですか?」と声をかけあっていました。ワンパターンのあいさつですが、声のニュアンスなどから日々の健康確認、安否確認も含んでいて、普通のあいさつとは違いました。

毎日、このあいさつには助けられましたねぇ。「今日もなんとか生きていかなければ」と思うことができましたから。(神戸市 K・Rさん 39歳女性 飲食店経営)



日常の時でさえ大切なあいさつが、避難生活という非日常の生活を送る上ではぐっと心に入っていくのがわかります。


例えば、このようなあいさつをすることに限らず、他にもちょっとした言葉をかける、そっと何かを贈る、わける、手を握る、なんでもよいのですが、相手に何かを伝えることは、「あなたがそこにそうしているってこと、私はちゃんと気づいていますよ、気にかけています」というメッセージになります。

このように、相手の存在を認め、そのことを相手に伝える、というのは、肉体的には空気と同じくらい、人の心に必要なものなのです。

心理学の用語では、ストローク(英語で撫でさする、という意味があります)ともいわれます。

このストロークがないと、人は、叱られる、という負のストロークですらほしがります。
ちょうど、子供がさびしいときにわざといたずらや乱暴をしたり、ぐずったりするように。

それほど大切で、それほど、効果がある<存在の認知>。

声をかけるのに、お金はかかりません。

身近な方同士、ほんのちょっとしたためらいを厭わずに、声を掛け合うことが、元気の元になるかもしれませんね。

もしかすると、(今はそっとしておいてほしい)、そんな気分の人もいるかもしれません。
その時は、伝わらないかもしれませんが、ほんの少し、相手にとって気にかからないほどにそっと、優しく、上に書いたことを実行してみてもいいかもしれません。
きっと後から、それが心の支えになることがあると思います。





<ある>中学1年生の日記

「私は最近あせっているのデス
私なんかべつにいなくてもいいそんざいなんじゃないのかな…などと。だって、私とちがって運動しんけいがよかったり、頭がよかったり美人でかわいくて自立心があってなにもしなくても…なんていうか立派な人がいて私なんかそこらにいくらでもいるようなアホで…。苦労してるわりに。」


多分、自分がそのままの自分で存在していることに、人から認められている感覚を得られていないのだと思います。
ほんの少しのきっかけで、友だちから沢山のストロークを得られたら、変わっていくのかもしれません。
また、自分にしかできない役割を持てたら、自分で自分を誇れるようになるかもしれないですね。
posted by サトウマリコ at 12:04| Comment(0) | 震災 心のケア

2011年04月09日

震災 心のケア3 「希望と絶望の狭間で」

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これから書くことも、前回と同じく、災害に限ってのことではなく、普段の生活の中でも言えることです。

ただ、4月7日夜に起きた、大きな余震を体験して、感じるところがありましたので、皆さんに共有していただければと思い書くことにしました。

タイトルに、「希望」と「絶望」、という言葉を書きました。
「絶望」という言葉は、本当に、全てに望みを失った状態なわけで、あまり使いたい言葉ではありません。
でも、「絶望」とはそういうことなのだと思います。
普段の生活ではもう少し別の言い回しで語られるかもしれません。

「心がポキっと折れた感じ」
「目の前が真っ暗になった」
「もう、ダメだと思った」

そんな時、注目したいのは、それまで何とか心に繋いできた希望が、絶望に変わってしまう「瞬間」があったのではないか、ということです。


誰かの言葉、何かの出来事。
そういったことを体験して、それを自分なりに<解釈>し、それを強く<信じ込む>
これは、瞬間的に心の中で起きることです。
なので、大抵の場合、「自分自身が(そのように解釈して)考えたこと(=決め付けたこと)なのだ」という自覚がありません。
そこで他の選択肢を捨ててしまうのです。

他の選択肢……それが、希望です。希望がなくなると、人の心は深い闇の中へと入りこんでいきます。


人がどのように物事を<解釈>した時に、絶望するのか。

例えばそれは、認知療法では、約10通りの「認知の歪み」として例示されています。


私が今回、余震を体験した時のことを例にしてお話したいと思います。

大きな揺れを体験し、恐怖が自分の気持ちを乱しました。
体が震えるようなショックと、そして、浮かんできた気持ち。

「また、起こるのか。これからもいつ起きるかわからない。これからの世の中がどうなっていくかわからない」
「今度大きな地震がきたら、建物が壊れていつ死んでもおかしくない」
「どうして自然は打撃を繰り返すのだろう。せっかく復興しようとしている大勢の努力が無駄になってしまう」

そして、なんだか心が沈んでいくような感じがしました。

同じく余震を体験した皆さんは、どのような考えが自然に浮かんできたでしょうか。


私と似たような考えが浮かんだとしても、それは自然な反応です。
でも、このまま自分の感じたことを、未来への正しい予想として信じる前に、考えて欲しいことがあるのです。
青字は、自動的に浮かんだ考え。上に書いた呟きや、皆さんにも起こりうる考えの中で、心が折れそうになるポイントを整理してみました。
そして、()の中は、認知療法でいう「認知の歪み」とその意味です。


1 何度も同じことが起きているのだから、これからも起きるに違いない(一般化…一度起きたことが何度も起きると信じ込むこと)

2 もう、悪い未来しか想像することができない(先読みの誤り…悪い未来を一足飛びに結論づけること)

3 努力は全て水の泡だ(全か無か思考…物事をゼロか百かで考えること)

4 自分にはとてもこの出来事に太刀打ちできる力がない。助けてくれる人だっていないだろう。(過小評価…自分や他人の本来持っている能力を小さく見積もること)


このようなことを、無意識のうちに強く信じ込んでしまったら…心が折れる、無気力になる、そうなってもおかしくないと思います。

このような考えが浮かぶのは、自然なことですし、ある程度、悪いことを予測することは、将来の自分を守ることにも繋がります。

ですが、人から「希望」を取ってしまうと、生きる気力がなくなってしまいます。

では、どうしたら「希望」が持てるのか?


悪い<信じ込み>が100パーセント真実なのか、一度立ち止まって考え直すことです。そのことにより、別の可能性=希望を見いだすことができるかもしれません。


上の1〜4に対応させて考えると、

1 何百回と同じことが起きても、その次はもう起こらないかもしれない。最悪はいつまでも続くことはないだろう。これまでの歴史を振り返っても、災害はいつか終息している。

2 今は苦しいけれど、もしかすると、こんな(よいイメージ)未来が待っているかもしれない。その時は、このつらい経験が糧になっているだろう。

3 もし、これまで立て直したことがまた壊されたとしても、そこから学んだことはあるはずだ。今度はもっと強く、災害に立ち向かうことができるだろう。

4 今はショックで何もできなような気がしているけれど、無理をすることはない。マイペースで少しずつやれることをやっていこう。どのような方法があるか、困った時は声に出して、人の助けを少しずつ借りていこう

例えば、自分の心の中で、このような「反論」をすることができるかもしれません。


何かの出来事によって強く落ち込んだ場合は、心の中で、立ち止まることなく、絶望的な考えに、「ストン」とはまり込んだ瞬間があるはずです。


カウンセリングでは、カウンセラーがその「瞬間」を手探りで探すように、クライエントさんの話を聴いていきます。まるで疼いている傷を見つけ、手当てをするように。

ただ、カウンセリングを利用しなくても、上のような知識を知っているだけで、もしくは「知識」と意識していなくても、偏った<解釈>を、ニュートラルな場所、あるいは、少しだけ楽観的な位置に持ってこられる能力があると、心はしなやかになっていきます。

そうやって、自分自身が未来に「希望」を持ち、その未来にいる自分を想像できるということが、体を動かすエネルギーにも繋がっていくのだと思います。
posted by サトウマリコ at 11:57| Comment(0) | 震災 心のケア

2011年04月07日

震災 心のケア2 「内面を癒す旅」 

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東日本大震災が起きてから、もうすぐ1カ月になろうとしています。

今回書こうと思ったのは、大切なものを失ったことについてです。

大切なものというのは、「人」「仕事」「物」「何かとの関係性」「何気ない日常生活」など、自分にとって大切だった、あるいは失って初めて大切なものと気づいた、さまざまなものがあります。

今回のように、失った原因が自然災害という場合、その数が多ければ多いほど、共感し合える場合が多いかもしれません。
また、自分が体験しなくとも、誰かの体験を我がことのように感じていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。

ですが、厳密にいえば、身内を亡くした人と、家を失った人、仕事を失った人、そのどれもが同じ気持ちではないはずです。
身内を亡くした人でも、親を亡くした人、配偶者を亡くした人、子供を亡くした人で想いは違うかもしれません。もちろん、哀しい、つらい、という気持ちは充分に想像し合えるかもしれません。
さらにいうと、失った相手や、対象が同じだからといって、失った、という気持ちをひとくくりにすることは、できないのです。

つまり、どんな場合でも、その人にとって、固有の、その人だけの「想い」があるはずなのです。

今回は、「震災 心のケア」というカテゴリに入れましたが、この「喪失」という体験は、実は、自然災害がなくとも、私たちの日常と隣り合わせにあります。先ほど書いたように、自然災害という形で一斉に起きたのではなく、個人個人が突然に出合っているのを、他の人が気づかなかったり、ニュースとして届いていないだけです。
だから、本来はカテゴリとしては、「ココロ」であるのですが、多分、震災がなければ、この記事を書かなかったと思います。これまで、喪失に対する心のケアはカウンセリングルームという密室で行うこととして、ブログに書く必要はないと考えていたからです。

でも、今は沢山の人がこの「喪失」という体験によって、苦しんでいるのではないかと思い、書くことにしました。

震災によって大切なものを失った方も、他の出来事によって、同じように喪失の体験をした方にも読んでいただけたら、と思います。



私たちは、普段、「行動」しながら、何かを「感じ」たり、「考え」たりしています。

行動する時は、目の前に何かの目的があると思います。
仕事でも、買い物でも、遊びでも、何かをしようと体を動かしているでしょう。
同時に、私たちが「心」というような概念を持っている部分でも活動をしています。

もしも、行動の目的が、仕事である場合、しかも頭をフル回転するような場合、私たちの心はそのことに集中しています。

でも時々、頭に余裕ができた時…単純作業、毎日の習慣、考えなくても体が動くような時、周りに人が居らず一人になった時、そんな時には、皆さんの心はどんなことを感じたり、考えたりしているでしょうか。
おそらく、その時その時で、楽しいこと、嬉しいこと、気がかりなことを、想像したり、回想したり、漂うようにいろいろなことは浮かんでは消えていくのではないかと思います。
それが内面の旅です。

私たちは、日常生活の中で、仕事や役割を持っていることが多いと思います。これは、具体的なお金を稼ぐ仕事、という意味だけでなく、ある時は、家族の一員としての役割だったり、人間関係の中での役割でもいえることです。
その役割をこなしている時は、ある程度、自分をその役割に合わせているのではないでしょうか。

これらを厳密にわける必要はないのですが、ある程度、「公的な自分」と「個人としての自分」があり、毎日の生活を送る中で、この二つを行ったり来たりしながら進んでいく、とイメージしていただければ、と思います。

さて、人の世は無常だといいますが、決して同じ状態が続くわけではないとわかっていても、私たちは、突然に、あるべきはずのものを奪われるとショックを受けます。

最初は、信じられない、と思うかもしれません。
実感がわかなくて、涙もでないかもしれません。

けれど、次第にそれが現実に起こったことなのだと、受入れざるを得なくなります。

それは、つらい「作業」かもしれません。

「作業」というのは、「感じる」ことです。

自分のそばからその存在がなくなったことを、悲しみ、どうしてそんなことが起きたのかと怒り、どうしてもっと大切にしてあげられなかったのか、と自分を責めたりします。
もう、戻らない、とわかっていても、いろいろな感情がかけめぐり、どうしようもなくいたたまれない気持ちになる、そういう作業です。

心理学には、この作業に「グリーフワーク」もしくは「モーニングワーク」という名前がついてます。日本語にすると、「喪の作業」「悲嘆の仕事」などといわれます。

この作業には、続きがあります。
さまざまなつらい感情を持ちながら、そこから逃げずに向き合っていくのです。

ある人は、故人の持ち物を整理するかもしれません。
ある人は、自分の気持ちをひたすらに文章に綴るかもしれません。
ある人は、信頼できる相手に話を聴いてもらうかもしれません。

ある人は、旅に出るかもしれません。
ある人は、絵を描いたり、音楽を聴いたり演奏したりするかもしれません。

そして、嘆きの気持ちを充分に表現できた時、苦しかった心に回復の兆しが見えてきます。
忘れるのではなく、その存在と出合ったことを心から愛おしく思える、そんな境地になれるのかもしれません。


この作業をしないとどうなるでしょうか。

苦しさから逃れる方法はあるかもしれません。
仕事に夢中になって、何も考えないようにすること。
お酒やギャンブルや他の何かに依存すること。
悲しむことは弱いことだと思い、自分の本当の気持ちに向き合わないこと。

でも、逃げたつもりでも、癒されていない心の傷は何年も何年も、消えてなくならないようです。何かのきっかけで、簡単に、抑えていた感情が決壊するかもしれません。どこか自分の心に歪みを感じるかもしれません。


これまで、戦争や災害の経験をした方に、どうやって乗り越えたのか、どんなにつらかったのか話を聴きたい、事実を知りたい、と体験者に乞う人がいます。今回は私もその一人でした。
しかし、総じて、口が重いように思います。話をしてくださったとしても、それが決して、易しいことではないことが伝わってきます。

一体、自分にとって大切なものを失うという体験は、本当に乗り越えられるのか、と思ったりもします。
だけど、口が重いからといって、乗り越えていない、ということではないような気がします。
自分にとって、大切な思い出だからこそ、人には簡単に話したくない場合もあるのではないでしょうか。


グリーフワークについて、書きましたが、100人いれば100通りの向き合い方があると思います。
私の書いたことは、そんなことがあるのだと、心の隅においてくださればと思います。
無理をすることはありません。自分のやり方で、いいのだと思います。




このような作業を、内面で行っていく段階にきている方が多くいらっしゃるのではないかと思います。

しかし、それと平行して、日常生活も戻りつつあります。
4月は年度の始まり。ただでさえ、環境の変化が大きい時です。
そんな時に、自分の役割という公的なことをこなしながら、「内面の旅」がうまくできるかどうか、私は心配しています。


グリーフワークの只中にいる方は、周りの人の言葉に敏感になっている場合が多くあります。
何気ない励ましが、相手を傷つけていないか、周りの方が気づかうことも大切だと思います。

落ち込んでいる相手を見て、なんとかしてあげたい、と思われるのはよくわかりますが、自分の一言で簡単に相手が元気になると思わず、現実と合わない励まし方(例:「私もそうだったよ」→「でも自分は違うんだ」 「またいいことがあるよ」→「でももう失ったものは戻らないんだ」 「元気出して」→「出せたら苦労しないよ」)は、考えたほうがいいかもしれません。
ではどうすればいいか? 相手がどんなことを感じているか、ただ一緒に感じ、そのことを伝え、様子を見守り、必要だという時がきたら、すぐに手を差し伸べられるように、時間をかけてつきあっていくことではないかと思います。

それから、もうひとつ。絶望のあまり、うつ状態になってしまうことがあります。それは、ある意味人間として自然なことなのかもしれません。
ですが、「うつ病」となると、脳の生体的なメカニズムの問題ですので、先に書いた感情の作業は妨げられますし、まずは休養と薬物治療で、体の状態を楽にしてあげることが必要です。
眠れない状態が長く続いたり、ものが食べられない、思考能力が鈍くなる、体が重たく動かせない、などの状態が続く時は、迷わず精神科や心療内科を受診してください。
周りの人が気づいた時も、受診をお勧めしていただければと思います。


私も、日本という国で起きている見えない痛みを、一緒に感じられるよう、そして、自分にできることを考えながら日々を送っています。
posted by サトウマリコ at 14:07| Comment(0) | 震災 心のケア

2011年03月17日

震災 心のケア 「様々な気持ち」

未曾有の大震災が起きました。続いて、津波、原発事故と日本は大きく揺れ動いています。

まずは、被災した方々に、心からお見舞い申し上げます。


今、カウンセリングセンターとしてできることを考えているところです。
盛岡心理カウンセリングセンターのホームページも合わせてご覧いただければと思います。
http://counseling-center.jp/

私自身、岩手県内陸部で強い揺れを感じ、約30時間ほどの停電、約1日の断水、物資の不足などを経験し、また現在も引き続き非常時は続いております。

その中で、さまざまな情報収集、そして自分の体験を通して、感じたことを少し書きたいと思います。


今の皆さんがどのような心の状態にあるか、想像しながら、いくつか挙げていきたいと思います。


まずは、今現在生命の危機に立ち向かっておられる方。
おそらく、目の前の、ご自身が生存する術としての一つひとつのことに集中していらっしゃることと思います。
もし仲間が周りにいらっしゃるのであれば、お互いに声をかけあって、一緒に知恵を絞り、今の状況に立ち向かっていること願っています。


次に、救助やライフラインに関する業務、その他統率的な職務に当たっておられる方。
使命感を背負い、懸命に頭を働かせ、体力の限りを尽くしていらっしゃることと思います。
立場上、弱音を吐くことなく、無理を押してでも、職務を遂行されていると思います。
お気持ちはあっても、人間ですから何十時間も動き続けることはできません。判断力も鈍ります。
強制休養をとり、ローテーションを組み、パートナーを組み、ご自分の体を大切にすることも仕事の一部だと思って、休むことに罪悪感を覚えないでほしいと思います。


被災はしたけれど、ある程度落ち着いた環境におられる方。
自分よりもっと大変な経験をされた方を身近に感じているかもしれません。
ご家族やお知り合いを亡くされた方、そして、そういう方を知っているという方も多くいらっしゃると思います。
そういった多くの方が感じるのは、罪悪感だといいます。
自分だけが助かった、自分ばかり楽になったことに対する罪悪感です。
今はそれが自然な感情なのだと受け止めて、生活の物理的な安定と共に、ゆっくりと気持ちを落ち着かせていけることを心にとどめていただければと思います。


被災した方を心配していて、何かをしたいけれど、どうしたらいいのかわからない方。
その中でも、いくつかの立場があるかと思います。

まず、被災地の方。同じ被災地でも、状況はそれぞれに違うと思います。自分の生活を守ることで精一杯の方、誰かを助ける余力が少しでもある方、日常の業務に従事する方……。
そして、被災地外の方。その中には、被災していなくても、さまざまなニュースから、自分の生活に不安を感じている方もいらっしゃると思います。
また、全く変わらない日常の中で、ニュースなどから現地の様子を知り、心配している方もいらっしゃると思います。おそらく世界中にいるのではないでしょうか。

皆さん、それぞれの立場で、自分が何をしたら役に立つのか、自問自答しているのではないかと思います。
中には、直接現地に行こうとする方もいらっしゃるでしょうし、自分ができる範囲で、節電、募金などの行動を起こす方もいることと思います。自分が得意とすること、普段の仕事をすることで、間接的に応援してくださる方もいらっしゃると思います。また、ネットやメールなど、様々な方法で励ましのメッセージを送ってくださっている方もいらっしゃいます。
それでも、困っている人がいることを知っているのに、自分が役に立てないことをはがゆく思われる方もいらっしゃるかもしれません。

他人の行動を見て、何が正しいのか、と議論になることもあるかもしれません。
テレビを見て、腹を立てている人もいるかもしれません。

でも今は、それでいいのだ、ということを知っていただければと思います。
今、自分がよいと思った方法で、自分ができることをする。意見を述べることも含めて、です。
それで、悪いことなどありません。
もちろん、一般的なマニュアルとして、支援活動の障害になるような行動は避けるよう配慮したうえでのお話です。それさえ理解していれば、人を助けることには、いろいろなやり方があってよいのだということを、ご自身で納得していただけるとよいのではないかと思います。


私は今、心のケアを専門とするものとして、これまでに得てきた知識だけでなく、もっと現実的な話を聞きたいと思い、阪神淡路大震災を経験された方とコンタクトをとっています。
情勢から目を離さず、何ができるかを考えています。
そして、自分自身がなるべくよいコンディションで仕事をできるように努めています。

参考になったブログをひとつ紹介させていただきます。

被災者の役に立ちたいと考えている優しい若者たちへ〜僕の浅はかな経験談〜
(URLを4月8日に削除しました)


この非常時を乗り越え、皆でいたみ(痛み・傷み・悼み)を分かち合い、希望を分かち合って、生き続けることを切に願っています。
それが、今生きている私たちにできることなのではないかと思います。




2011.3.17 21:10 追記

上で紹介したリンク先のブログの筆者が、今月23日をもって、当該エントリーを削除することを表明しています。一部、趣旨を誤解されるかもしれないことを危惧してのことだそうです。
筆者が許可をしておりますので、一般の方のコメントは掲載せず、本文をコピーさせていただきたいと思います。
尚、この文章は、「このエントリーはボランティア自体を否定したものではなく、どうせならより効果的な参加方法を、冷静に模索して欲しい」ことを伝えようとしていること、マスメディアへの転載は遠慮してほしいとの筆者からの補足がありました。


(補足部分からの抜粋)
いただいたご意見の中で、私が最も深刻かつ意外に感じた誤解は、「『僕』が、現地ボランティアは害悪だから、素人は現地に行くべきではないと論じている」というものです。

確かに私は文章中で、素人が現地に行っても邪魔になるだけだ。と書きましたが、これはあくまで災害発生直後の「救出フェーズ」に「無組織で」乗り込むことの非効率性を書いたつもりでした。
これに対して、「いや私はその状況で乗り込んで役に立ったのだ」という意見に対しては私はとても嬉しく感じています。
以前も書きましたが、この問題にはこれという正解はありませんので、全ての判断・経験が平等に尊重されるべきだからです。

しかし、「現地ボランティア自体を否定している」
「募金の方が現地ボランティアよりも崇高であると言っている」
という誤解は、今後のボランティア行動全体に水を差してしまう危険性を感じました。
これが私が深刻に思った理由です。


(以下、ブログ本文です)

阪神大震災が起きたとき、僕は高校3年生で、しかもセンター試験の翌日だった。
遠くから沢山のトラックが走ってくるような、不気味な音が夢うつつに聞こえ、気がつくと家全体が揺れていた。父親にたたき起こされて玄関を開け、ガスを閉めてTVをつけると、阪神高速が崩壊していた。家が揺れた恐怖と、テレビの実感の無さと、街中の静けさが記憶に残っている。

その日は登校してセンター試験の自己採点を行い、二次試験のための面談をしなければならなかった。僕は迷ったが、結局自転車で出発した。大阪城の堀から水が溢れ出していた。

学校に着くと全てがいつもどおりで、来ていない生徒もいたが、先生は特に何も言わなかった。粛々と自己採点し、粛々と面談が行われた。僕達の仲間で三宮と西宮に住んでいる友人がいたのだが、さすがに登校はしていなかった。昼休みに仲間3人で、二次試験が終わったらボランティアに行こうと話をしていた。

下校時刻になって、担任の物理教師がおもむろに話しだした。
「今回の震災で我校の教師や生徒も被災者となり、登校できない人がいます。センター試験が終わり、受験生としての役目を終えた人もいると思います。あなた方の中には、正義感や義侠心に駆られて現地に乗り込む人もいるでしょう。それは間違ったことではありませんが、正直に言えば、あなた方が役に立つことはありません。それでも何かの役に立ちたいという人は、これから言う事をよく聞いてください。

まず食料は持って行き、無くなったら帰ってくること。被災地の食料に手を出してはいけません。
寝袋・テントを持っていくこと。乾いた床は被災者のものです。あなたがたが寝てはいけません。
作業員として登録したら、仕事の内容がどうであれ拒否してはいけません。集団作業において途中離脱ほど邪魔なものはないからです。
以上の事が守れるのであれば、君たちはなんの技術もありませんが、若く、優秀で力があります。少しでも役に立つことがあるかもしれない。

ただ私としては、今は現地に行かず受験に集中し、大学で専門的な知識や技術を身につけて、10年後20年後の災害を防ぐ人材になって欲しいと思っています。」

言葉の端々は忘れてしまったが、教師が言いたかったことは今でもはっきり憶えている。

結局僕たちは、物理教師の言ったとおり、なんの役にも立たなかった。
配給のパンを配って回ったり、お年寄りの移動に付き添ったり、避難所の周りを掃除したり、雑用をさせてもらったが、持っていった食料は5日で尽きた。風呂には入らなかったが、寝るところは防犯上困ると言われて避難所の中で寝た。生活のインフラ整備や瓦礫除去作業は、消防や自衛隊があ然とするくらい力強く、迅速に問題を解決していった。僕達の存在は宙に浮き、遊び半分で来たボランティアごっこのガキ扱いをされていた。実際手ぶらで現地に入って、汚い仕事を嫌がるような若者はたくさんいたし、そういうグループと僕達が、能力的に大きな差があったかというと、とてもそうとは言えなかった。
僕達が現地で強く学んだことは、「何かして欲しい人」がいて「何かしてあげたい人」がいても、事態は何も前進しないということだった。人が動くためには、「人を動かす人」が必ず必要になる。社会人なら常識として知っている事さえ、僕たちは知らなかった。

僕達は現実に打ちひしがれて現地を離れ、浪人を経て京都の大学生になった。そして被災地への情熱も無くなっていった。結果的に僕達の正義感は、ハリボテだったのだ。正直に告白し、反省する。僕たちは、神戸への気持ちを、たった一年間も持続させる事さえできなかった。

今回の震災で、被災した人の役に立ちたい、被災地のために何かをしたい、と感じている若い人達がたくさんいると思う。でも慌てないで欲しい。今、あなた方が現地で出来ることは、何一つ無い。現地に存在すること自体が邪魔なのだ。今は、募金と献血くらいしか無いだろう。それでも立派な貢献だ。胸を張って活動して欲しい。
そして、是非その気持を、一年間、持ち続けて欲しい。もしも一年経って、あなたにまだその情熱が残っているなら、活躍できるチャンスが見えてくるはずだ。仮設住宅でのケアや被災者の心の病、生活の手助けなど、震災直後よりも深刻な問題がたくさん出てくる。そういった問題を解決するために、NPOなどが立ち上がるだろう。その時に初めて、被災地は「何も出来ないけど何かの役に立ちたいと思っている、心優しいあなた」を必要とするのだ。もしかするとそれが、あなたの一生を変える大きなきっかけになるかもしれない。

結局僕は紆余曲折を経てGISの技術者になり、専門分野は違っても、多少なりとも防災の分野に寄与できる立場に辿り着いた。あの頃よりも、少しは人の役に立てるようになったんじゃないかなと考えている。
posted by サトウマリコ at 12:24| Comment(2) | 震災 心のケア