子供の頃、不思議に思っていたことがありました。
大人は昔、子供だったのに、どうして子供の気持ちがわからないんだろう?
例えば、大人にしてみればしつけや教育として当然だという理屈でも、子供心に「理不尽だなあ」と思われる叱られ方をした時に、よくそう思っていたような気がします。
そして、「私は、今のこの気持ちを大人になっても忘れないようにしよう」と決心したのです。
果たして、「大人」になった今、どうでしょう。
カウンセリングでは、カウンセラーは話し手の気持ちに「共感」をします。ここでの「共感」は、「同意する」という意味ではなく、「共に感じる」という姿勢で聴くということです。
自分でいうのもなんですが、大人の方と話している時と同じように、中学生や高校生と話している時も、すっと共感できる自分がいます。
あくまでも、本人とすっかり同じ気持ちになるのではなく「きっとこういう気持ちなんだろうなぁ」と自分の心で理解する、ということになるわけですが、それでも、「まったく想像ができない」ということは少ないほうだと思います。
カウンセリングに限らずとも、子供の頃や思春期の、沢山の悩みや葛藤の記憶が、今、人とのコミュニケーションに生きている、と思います。
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今日、新聞を読んでいたら、石川啄木の生誕100年祭の記事がありました。
なんでも、啄木と歌手の故尾崎豊には共通点が多いとか。
啄木の「十五の心」の歌と尾崎の「15の夜」という響きを聞いただけでも、納得できる気がします。
それで、あらためて石川啄木の歌はいいな、と思い、自宅の書棚から以前買った「一握の砂・悲しき玩具」の文庫本をひっぱり出してみました。
(序)には、啄木の歌がいかに詠み手と読み手に「共通の感じ」があるか、ということが挙げられています。
素直にに、ずばりと、大胆に率直に詠んだ歌、と評しています。
一方、尾崎豊も子供の頃、父親に短歌を習った時に「素直に自分の思ったままを詠む」ということを教わったそうです。そのことが、彼の作る「ストレートに心に響く歌」に影響しているのかもしれません。
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自分が話したことを誰かが共に感じてくれる、これはカウンセリングや、若しくはそういった聴き方をしてもらった時に起こる心の浄化作用につながることだと思っています。
そして、文学や美術や音楽といった芸術は、作者が想いを形に残し、時を経て、他の誰かがその作品に触れ、自分と「共通」の感覚をそこから得られたときに、やはり想いが重なったという心地よい作用があり、そして人の心にエネルギーが湧くのかな、と思います。
だからきっと、多くの人は、芸術を愛しているのではないでしょうか。
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せっかくなので、久しぶりに紐解いた文庫本の中から、啄木の歌をいくつか紹介しますね。(著作権は切れています)
皆さんの心に重なる歌はあるでしょうか。
頬につたふ
なみだのごはず
一握の砂を示しし人を忘れず
たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず
こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて死なむと思ふ
やはらかに積もれる雪に
熱(ほ)てる頬(ほ)を埋むるごとき
恋してみたし
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買い来て
妻としたしむ
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心
城址(しろあと)の
石に腰掛け
禁制の木の実をひとり味(あぢは)ひしこと
ふるさとの訛(なまり)なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく
かの声を最一度(もいちど)聴かば
すっきりと
胸やはれむと今朝も思へる
考へれば、
ほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し。
煙管をみがく。