2012年02月01日

幸せの定義・6

〜「幸せになる」という決意〜

皆さんは、誰もが当然のように「幸せになりたい」と思っている、と思うでしょうか。
当然だという方は、こんな質問さえ思いつかないと思います。
誰だって幸せになりたいだろう、と考えるのは当然のことかもしれません。

人生の最初の頃は素直にそう思っていても、途中の経験がその人の心の奥底に変化を起こすことがあります。

「(自分は)幸せになれないかもしれない」
「(自分は)幸せになってはいけない」
「(自分は)幸せにならなくてもいい」

こういった信念は、自分自身が意識している場合もありますし、はっきりとは意識していない場合もあります。
どちらの場合にしても、「幸せになりたい」と思っている人に比べると、幸せになれる確率は、少しだけ低いような気がします。

幸せになりたいと思っている人は、自分にとっての幸せとは何か、について時々考えたりします。
そして、それに近づくためにはどうすればいいか、と行動を起こします。

一方、幸せになりたいと思っていない人は、自分の無意識の脚本にそって、自暴自棄になったり、最初から諦めていてチャンスを逃したり、ほんの少しの言葉や態度がよい出会いに繋がらなかったり、ということが多くなるからです。


幸せでないより、幸せなほうがいいに決まっている……普通に考えればそうなるはずなのに、どうして、幸せになりたいという気持ちを失ってしまうのでしょうか。
それは、「余程のこと」があったのだと私は思っています。その余程のことが、幸せになることを諦めさせたり、その資格を失ったと感じさせたり、罪悪感を感じさせたりするのではないでしょうか。

だから、簡単には、気持ちを変えたほうがいいよ、とアドバイスする気にはなれません。

幸せになることを諦めてしまうほどの体験とは、どういうことでしょうか。
これは、わかる人にはわかる、としか言いようのないことのようにも思います。
理由はそれぞれ違うかもしれません。

ただ、多くの場合、上に書いたように、「自分は」という条件がつくような気がします。
自分は、幸せになってはいけない人間なのだ、と。

私の望みのひとつは、そういう気持ちに至った人が、また新たな経験を通して、しっかりと「幸せになりたい」と決意し直すことです。

時間がどれだけかかっても、考え続けてほしいのです。
「一人の人間が幸せになること」は、おそらく「幸せな人を増やしていくこと」になると思うからです。

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posted by サトウマリコ at 20:58| Comment(2) | コラム
この記事へのコメント
佐藤さん、こんにちは。ネットで読んだ緩和ケアに携わる看護婦さんの話です。患者さんが死ぬ間際に自分の人生を振り返り、1番の後悔としてその看護婦さんに話す事で多いのが「自分が思うように生きず、他人に望まれるように生きたこと」だそうです。無意識のうちにそうなってしまったのかもしれないし、あきらめたのかもしれないし。

自分にとって幸せって何なのか、考える機会があることはまず幸せなことなのですね。

Posted by AS at 2012年02月08日 18:44
>ASさん

お久しぶりです。

緩和ケアという場が浸透してきてよかったという気持ちと、その現場での「心」についての機微というものは気になることのひとつでした。
ASさんから教えていただいたエピソード、なんとも考えさせるお話です。他人に望まれるように、「立場」で生きていらした方、そうせざるを得なかった方は多いのかもしれないですね。

確かにこうして立ち止まって、幸せについて考えることができるということ自体、幸せなのだと心に留めなければ、と思いました。
コメントありがとうございました。
Posted by サトウ at 2012年02月09日 22:20
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