皆さんは、誰もが当然のように「幸せになりたい」と思っている、と思うでしょうか。
当然だという方は、こんな質問さえ思いつかないと思います。
誰だって幸せになりたいだろう、と考えるのは当然のことかもしれません。
人生の最初の頃は素直にそう思っていても、途中の経験がその人の心の奥底に変化を起こすことがあります。
「(自分は)幸せになれないかもしれない」
「(自分は)幸せになってはいけない」
「(自分は)幸せにならなくてもいい」
こういった信念は、自分自身が意識している場合もありますし、はっきりとは意識していない場合もあります。
どちらの場合にしても、「幸せになりたい」と思っている人に比べると、幸せになれる確率は、少しだけ低いような気がします。
幸せになりたいと思っている人は、自分にとっての幸せとは何か、について時々考えたりします。
そして、それに近づくためにはどうすればいいか、と行動を起こします。
一方、幸せになりたいと思っていない人は、自分の無意識の脚本にそって、自暴自棄になったり、最初から諦めていてチャンスを逃したり、ほんの少しの言葉や態度がよい出会いに繋がらなかったり、ということが多くなるからです。
幸せでないより、幸せなほうがいいに決まっている……普通に考えればそうなるはずなのに、どうして、幸せになりたいという気持ちを失ってしまうのでしょうか。
それは、「余程のこと」があったのだと私は思っています。その余程のことが、幸せになることを諦めさせたり、その資格を失ったと感じさせたり、罪悪感を感じさせたりするのではないでしょうか。
だから、簡単には、気持ちを変えたほうがいいよ、とアドバイスする気にはなれません。
幸せになることを諦めてしまうほどの体験とは、どういうことでしょうか。
これは、わかる人にはわかる、としか言いようのないことのようにも思います。
理由はそれぞれ違うかもしれません。
ただ、多くの場合、上に書いたように、「自分は」という条件がつくような気がします。
自分は、幸せになってはいけない人間なのだ、と。
私の望みのひとつは、そういう気持ちに至った人が、また新たな経験を通して、しっかりと「幸せになりたい」と決意し直すことです。
時間がどれだけかかっても、考え続けてほしいのです。
「一人の人間が幸せになること」は、おそらく「幸せな人を増やしていくこと」になると思うからです。
自分にとって幸せって何なのか、考える機会があることはまず幸せなことなのですね。
お久しぶりです。
緩和ケアという場が浸透してきてよかったという気持ちと、その現場での「心」についての機微というものは気になることのひとつでした。
ASさんから教えていただいたエピソード、なんとも考えさせるお話です。他人に望まれるように、「立場」で生きていらした方、そうせざるを得なかった方は多いのかもしれないですね。
確かにこうして立ち止まって、幸せについて考えることができるということ自体、幸せなのだと心に留めなければ、と思いました。
コメントありがとうございました。