2012年01月20日

「幸せ」の定義・3

〜「幸せ」を感じる力〜


「幸せ」という言葉が出てきた一番古い記憶は、幼稚園の頃です。

その時は、母と一緒に部屋にいて、母は洗濯物をたたむか、アイロンをかけるか、といった作業をしていたように思います。私はその近くでオモチャで遊んでいました。

母がふと、私に「おまえは今幸せ?」と訊ねてきました。

幼稚園児に訊ねる言葉としては、あまりにシビアなものに私自身は感じたように思います。
そして、そんなふうに子供に訊く母は、今幸せではないのではないか、などと漠然とですが、邪推したような気がします。
なんと答えたのか覚えていませんが、多分、そう訊かれたら「うん」と答えるしかなかっただろうな、と思います。

母はもう覚えていないでしょうし、どういうつもりで訊いた言葉なのか今となってはわかりません。もしかすると、ほんの軽い気持ちだったかもしれません。


次に思い出すのは、中学生の時の先生の言葉です。
学級担任ではなく、国語の教科担任をしてくださっていて、学年で一番厳しい先生でした。
先生方の中では比較的ご年配の女性の先生です。

「あのね、今、どん底だと思っている人が、あなたたちの中にはいるかもしれない。でもね、どん底だってことは、あとは上がるしかないのよ。だから、これから必ず良くなっていくのよ」

こんなことを、もう少し長く、熱く語られていた記憶があります。直接、幸せという言葉は使わなかったかもしれません。でも、この話は私の中では、幸せというテーマと同然に感じられるのです。

中学生の頃というのは、小学校とも高校とも違い、数年での変化がかなり著しい時期です。体も心も不安定な生徒を教育するのは、簡単なことではないと今となっては容易に想像がつきます。
ただ、そういった理由で必然性があったのか、生徒の目線からの記憶としては、来る日も来る日も、いろんな場面で、いろんな先生方が「お説教」していた、という印象が強いのです。
そして、何故か、記憶に残っているのは、お説教の内容ではなく、先生方の叱責する表情や口調など、そんなものばかり。

なので、はっきりと覚えているこの先生の言葉は、かなり私にとっては印象が深かったものだったと思います。

この先生は、一番厳しく、そして一番優しかったのではないか、と今は思います。


いろんなことに言えると思いますが、苦しみを経験して、初めて普段どれだけ幸せだったか、ということに気づく、ということがあります。

体のどこか一部が痛くなった……例えそれが、命に差しさわりのない虫歯の痛みだったとしても、「痛くない」ことへのありがたみを感じることでしょう。

その考え方でいくと、辛い思いを沢山した人ほど、幸せを感じる力も備わっている、といえるかもしれません。少なくとも、幼稚園児の私は、自分が幸せかどうかなんて、「わからない」としか感じようがなかったはずです。でも、今の自分は、少なくともしっかりと「幸せ」と感じる力を持っています。何十年を生きていると、さすがに「辛い」ことも経験できるので……。


実際には、辛い思いをすると、哀しみや怒りが生まれると思います。誰かにぶつけたり、でもどうぶつけていいかわからなかったり、更には憎んだり、妬んだり、絶望したり、多くの感情を経験するでしょう。

そこを通らずに、ただ「辛い思いをしたんだから、無いものではなく、今あるものに目を向けて幸せを感じましょう」とは言いたくないのです。

ちゃんと、自分の感情に向き合って向き合って、そこから何かを得られたなら、次には心に平和が訪れるものだと、そう思いたいのです。

こうして書いていることの背景に、頭の中では心理学の理論はもちろんちらついていますが、どちらかというと、自分の感覚を頼りにしているところが大きいです。

そして何か大きな経験をして、幸せをひとつでも感じられるようになったら、今度は、一つひとつ対極的な経験をしなくても、「今」の幸せを感じる力が敏感になっていくのでは、とも感じています。対極的というのは、例えば「病気と健康」「孤独と愛情」「束縛と自由」「生と死」などです。


国語の先生が目の前の中学生たちに伝えたかったこと……昔の自分は、噛みしめるようにその言葉を聴いていましたが、今の自分はその時の先生の心境に近づいてきているかもしれません。


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posted by サトウマリコ at 00:21| Comment(2) | コラム
この記事へのコメント
「今」の幸せを感じる力が敏感になっていく。
震災はとても悲しく辛いことでしたが、普通の生活がどんなにありがたいか皆が気付くづくきっかけにもなりましたね。

転職してから、前より「教える喜び」が増えた気がしてます。学校でも全くなかったわけではないけど幸せを感じるゆとりがありませんでした。

数年前から、ピアノも「カウンセリング・レッスン」流行してます。関連本もいっぱい。

これから「心」「見えないもの」をもっと大切にする世の中になるといいですね。
NHKで「人間の祖先は、分かち合いと思いやりで生き延びだれしも本能的にその気持ちを持っている」今みたばかり。

生徒さんに優しくできても最も身近な家族に思いやりが欠けてる。(お互い様ですが^^;)
まず家庭内に幸せを見つけたいと思います。(難しい(-_-;))

Posted by nyadame at 2012年01月22日 22:11
>nyadameさん

確かに、あの大きな災害が私たちに気づかせてくれたものも多かったですね。あってよかったとは決して言えませんが、考えさせられることが沢山ありました。

ゆとり、大事ですよね。
どんな仕事にも意味があって充実感があってよいはずなのに、余裕がなかったり、いろんな理由でそれが感じられないのは残念だと思います。
「教える喜び」を感じられるのって素敵ですね!
相手の成長が感じられることって、嬉しいのでしょうね。

ピアノのカウンセリング・レッスン、初めて聞きました。コーチングのような手法を使ったレッスン?音楽療法的なもの? ネットでさらっと検索しましたがどちらなのかよくわかりませんでした(^^;
いずれにしろ、nyadameさんのおっしゃるとおり、「心」や「見えないもの」が大切な時代になってきていると思います。

震災でも見返りなく、捨て身で誰かのために行動するエピソードを沢山聞いて、人間というものについて考えさせられました。NHKの番組見てみたかったです。

長々失礼しました。
また、迷走コラムにおつきあいくださると嬉しいです。

一番身近な人、、大切にしなくては、ですね(私も><)。
Posted by サトウ at 2012年01月24日 00:04
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