心理学や精神医学を研究するということは、目に見えないものをいかに普遍的なものとして共有できるようにするか、という大変さがあると思います。実験で証明できる類のものならまだしも、臨床心理学となると、目指すところは、いかにその人にとって心の状態がよくなるか、ということになるので、レントゲンのように映すわけにもいかず、一人ひとりの個性があるなかでどう深めていくか、ということになります。
有名な臨床家たちがそんな時「自分自身の心の動き」に着目していったのは、自然なことだと思います。実感できるものは、自分の心しかないので、そこから何かを予想し他にも応用していく、あるいは他の研究者が次々と進化させていく、といった積み重ねがありました。
研究者と並べて考えるつもりはありませんが、私自身も、心理カウンセラーという仕事をしていて、人の心の動きへの興味はつきません。
人の心や感情について、想像力を膨らませる時に、規準となるのは自分自身が体験してきた感情になります。
そう考えると、いつも元気で明るいことだけが自然なこととは思わず、むしろ、ネガティブな感情とも時間をかけてつきあっていくことが、糧になることも多いと感じています。
件のクモの巣は、ちらりと見かける程度のつきあいですが、そのクモの生活を勝手に想像してしまいました。
もし、クモの生活をここのところの自分の心の動きと置き換えると、張り巡らした巣には、ゴミや木の葉のかけらなど、役に立たなかったり、不快なものばかりが、立て続けにかかる、そんな感じでしょうか。
何かが引っかかった、軽い振動が合図となって見に行けば、そんなものばかり。
たまには、そんなこともあるでしょうが、早くエサにありつかないと、命にかかわります。
それなのに、クモにできることは、巣を張って、あとは「待つこと」だけ。それがクモの生き方なのです。
人間もそうなのでしょうか。努力してチャンスを作って待っていても、未来に希望を持っていても、時々予想もつかない<出来事>が起きて、あっけなく自分から何かを奪っていくことがあります。
それは、生きるための財産かもしれないし、もっと他の大切なモノかもしれないし、自分の中にある自分を保つための何か、かもしれません。
2011年10月20日
クモの巣・3
posted by サトウマリコ at 18:47| Comment(0)
| コラム
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