2011年04月22日

震災 心のケア10 「助ける側の心理・助けられる側の心理」

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普段の生活の中で、多くの場合、私たちは「お互いに」助け合って生きています。

意識せずともそのような互恵の精神は、幾種類かの動物も含めてもともと備わっているようで、「助けてもらったら、お返しをする」、「助けてあげたのだから、お返しをもらう」のが当たり前という暗黙のルールの中でやりとりをされ、もし均衡が破られた時には、容赦ない形で自分に跳ね返ってきたり、逆に、助けられる一方である立場の方にとっては、精神的に自尊心に関わる問題となってくる場合もあります。

しかし、非常時の今は、その「お互いに」という条件を越えて、何の見返りを求めることなく「助けたい」という気持ちに駆られている方、それを実際に行動に移している方も多くいらっしゃいます。

それは、人間が、協力しあって生きる生き物だから、という説もあります。
「自分が犠牲になってでも、誰かを助けること」、これも互恵の精神にひけをとらず、私たちの本能のどこかに組み込まれているのではないか、と思われてなりません。
そうとしか思えないエピソードは、震災後、メディアからいくつも流れてきます。





今は、多くの方が、これまで脈々と続いてきて、これからも続いていくだろうと信じていた平和な日常生活が一変し、避難生活もしくは不便な生活を強いられています。

「助けが必要だ」というニーズも、「助けたい」という気持ちも、溢れかえっている状況ではないでしょうか。

このニーズと、実際の援助が、ぴったりと合うとよいのですが、そこに至るまでには、少し道のりがかかる場合があると感じています。

例えば、「東北の人は我慢強い」というような、地域の特性を耳にすることがあります。
学問的にいい切ることはできませんが、厳しい気候や、第一次産業を主としている地域では、簡単に弱音を吐かず、できることは自分でする、安易に人に助けを求めない、しかし、相手のことを察して助け合う、という文化があるようには感じます。
また、東北の人は無口で何を考えているかわからない、とか、よそ者には警戒心が強いが一度仲間になると人情に厚いなどという話を聞くことがあります。
地域によっては、かなりお人よしで親切だ、というエピソードも聞きます。

国レベルでも世界レベルでも、出身地域だけで性格をひと括りにできないように、一概に決めつけるのは難しいと思いますが、確かに、東北に住み、時に県外や他の国の人と触れ合う機会を持ってきた者としては、頷ける部分はあります。





そこで、少し心配なのが、「助ける」ことに関する、ニーズと援助のミスマッチです。

例えば、助けてほしい人が、素直に「何々が足りないのでこれをください」と言い、助けたい側が、その言葉をキャッチして、それを届けられたらうまくいくと思います。


ミスマッチのひとつは、助ける人が遠慮する場合です。
本人は遠慮と思っていなくて、本気で大丈夫、とか、自分でなんとかしなければ、と思っていることのほうが多いのではないかと思います。

実際に、私も今回、援助しようとして「大丈夫だから」と言われた経験がいくつかありますし、見聞きもしました。
助ける側としては、絶対に助けてあげたくなる状況だとしても、です。

この場合、もしも援助される側が、本当は援助をしてもらうことが長期的に見てよい状況なのに、遠慮するとしたら、その心理として、次のようなものがあるかもしれません。

それは、「人の手は借りない」という自分の状況に対する過信や、自分だけが楽になることについての周りの人に対する罪悪感や遠慮、それと最初にお話しした互恵の精神からくる「ギブ&テイク」ではなくて、どう考えても「テイク」のみになってしまうことへの抵抗感などです。

いつも人を頼らないことを当たり前としてきた人は、助けてもらうことに慣れていないのかもしれません。
でも、生きてこそ、後々、世の中に返すことで「ギブ」ができるはず。
必要なものは必要だと、ありがたく受け取ることも、相手に対する「ギブ」になるはずです。

ネット上の情報交換の場で、「何度も足を運んでいる、ゆかりのある山村の被災地(地域)に行くのだけど、何度きいても『大丈夫だから、間に合ってるから』としか地元の主婦たちは言ってくれない。実際には何が足りないのか教えてもらえませんか」という問いに、地元のネットユーザーが野菜や生鮮食品など具体的に教えている、というやりとりを見かけました。

私は、その支援者の方にも頭がさがる思いでした。
「はっきりと気持ちを言うことを美徳としない文化」では、「相手がいらないと言っているのに押し切ることは失礼なのではないか」、と身を引いてしまう場合もあるように思うからです。
結局、もらえば助かるのに、せっかく善意の人がそこにいるのに、やりとりは行われずに終わってしまいます。このような場合は、押して押して、受け取ってもらう、ということが正解といっていいような気がします。


逆に、本当に間に合っていて、頂く必要がないのに届く、若しくは、ニーズとは合わないものが贈られる、ということもあるでしょう。ものではなく、いろいろな形での支援もあると思います。
この場合、頂くほうとしては、せっかく好意や善意で送ってくれたのだから、と相手を気づかってしまう、ということもあります。


支援する側が、相手に何をどう支援するかという見極めは、本当に難しいことだと今回あらためて感じています。それでも、その時その時、目の前の相手を見ながら、自分で考えて行動してみることで何かが動くのは確かだと思います。

また、受け取る側も、この非常時ばかりは、遠慮せずにはっきりと気持ちを伝えることが大事ではないかと思います。
もしも、そこまでしてもらう必要はない、と本気で思った時には、「本当にありがとう。でも、今は大丈夫だから、気持ちだけありがたく受け取るね。必要になった時はお願いするからよろしくね」と伝えれば、相手も安心するのではないかと思います。

もちろん、必要なものがあったら、誰かに勇気を出して話しかけてみましょう。
「必要なもの」は、物資かもしれないし、話を聞いてもらうことかもしれないし、いろいろな情報を提供してもらうことかもしれません。自分の代わりに何かをしてもらうことかもしれません。時には、少し休みたい……心や体が限界にきていることもあると思います。そんな時も誰かに声を出して伝えることから、何かが動くかもしれません。
以前から言っていることの繰り返しになりますが、支援者や公務を遂行する方(しばしば被災者でありながら同時に支援者・現場で仕事をする立場である方がいらっしゃいます)の強制的な休養はとても大事です。交代制にして休まないと、長期にわたる活動を乗り切ることは難しく、新たな犠牲者を出しかねません。
ある組織では、トップの方から、交代制で休むことを提案され、順番に休んでいると聞きました。リフレッシュしてまた頑張る。もしそれが可能なら、無理をして周りに遠慮して皆が頑張り続けるよりも、そのほうが効率もずっとよくなるのでは、と思います。





ここまでは、個人と個人、あるいは小規模な人数でのやりとりを想定して書いていました。
もっと大きな単位では、避難している人たち(避難場所の大きさや、自宅で避難しているかに関わらず)に対する行政の支援があります。

さすがに、行政に対しては、「互恵の精神」ではなく、役割として当然と思うのか、大きな声で訴えている人もニュースなどでは目にします。

実際に生死に関わる域に近いところで、助けを求め、それを声に出しているのに、必要な支援が届いていないという場面を見るのは、切ないものがあります。

これは、気持ちというよりも、情報と物理的な事情によるミスマッチではないかと思います。
目に見えない混乱に、ぶつけようのない怒りに駆られている方もいらっしゃると思います。
少しでも早く、行政の流れが整い、スムーズに必要なものが必要な人のところへ届くよう、受け取るべき人が支援を受け取ることのできるよう、祈るばかりです。


素材サイト
http://www.s-hoshino.com/
posted by サトウマリコ at 13:39| Comment(0) | 震災 心のケア
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