2010年03月15日

多様な価値観のひずみ

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ある国に、日本の小学生の使い終わったランドセルを送って喜ばれた、という記事を数日前の新聞で読みました。
その国の習慣では、女の子は黒い服を着ることが多いので、女の子は主に黒いランドセルを好んで受け取った、ということでした。

入学式シーズンが近づいていますが、今のランドセルというのは、赤と黒だけでなく、随分色にバリエーションがあるようですね。オレンジや濃いピンクなどのランドセルを売り場で見かけて、果たして売れるのかしら??と思っていましたが、数年前から道で会う小学生の背中に、水色とか紺色、ピンク色などは、よく見かけるようになりました。

私はもちろん、赤と黒しかなかった時代に育ったので、もしも、自分が子供の頃に、個性的な色のランドセルをしょった子がいたら、どう感じるかな、と考えてみました。
よくわかりませんが、もしその子が堂々としていて、その子に似合っていたら、かっこよく見えて羨ましく思ったかもしれません。


またこれも、数日前の新聞だったと思いますが、高校生の絵画の入賞作品で、桜の花びらをピンク色を使わず、見事に現している作品がありました。


今、大人の私は、ランドセルにしても、絵画にしても、これらのことについて、「へぇ!」と関心することができます。

でも、もし子供の頃に、図画の時間、みんなで外で花の写生をしていて、隣の子の絵を覗き込んだときに、実際とはかけ離れた色の花が画面いっぱいに広がっていたらどう思うだろう、と考えてみました。

口に出すかどうかは別として、心の声は多分「それは違う!」とか「それはおかしいよ」かもしれません。あるいは、「○○ちゃんってちょっと変…」と思ってしまうかもしれません。

それは、私の中に、「写生とは見たとおり描くもの」とか「花は暖色系である」などという思い込みがあるからだと思います。


さて、大人の私たちにも、このような思い込み、価値基準は多かれ少なかれあると思います。

それらの規準は、ある時突然に他人からの攻撃の道具として自分に向けられたり、また知らず知らずのうちに自分自身のことを追い詰めたりします。

そんなふうに、人の悩みや苦しみに繋がるような価値規準で、私が出会った例を挙げてみると……

・子供は親の言うことを素直に聞かなければならない
・女性は○○歳までに結婚しなければならない
・子供を産んでこそ、女性に生まれた幸せを感じられる
・孫の顔を見せるのが親孝行だ
・配偶者より親の言うことが優先だ
・女性は家事をするのが当たり前だ
・結婚したら、夫(または妻)が舵をとるものだ
・仕事はどんな時でも全力を尽くさなければならない
・休日は趣味にいそしむのが健康的だ
・愛しているなら、○○してくれるはず
(○○してくれないのは、愛していない証拠)
・人前で上手に話せなければまずい
・病は気の持ちようだ
・メールや電話の返事をすぐにしないのは、相手に失礼
・○○ができない人間は生きている価値がない
・親は子供を傷つけてはいけない
・一人でいるのは寂しいことだ
・浮気は絶対に悪い
・人から評価を受けないということは価値がないということだ
・○○をしない(する)のは常識がない
・○○であることは、不幸だ


誤解のないように念を押しますと、上に書いたことは、「間違っている」ということではないのです。
逆に「正しい」わけでもないです。

よく、他人や自分を苦しめる規準として出てくるものだ、ということで挙げたのです。

では、こういった規準を持っていてはいけないか、というと、それもまた違います。

自分なりの、価値観を持つことは大事なことです。

ただひとつ、気をつけたほうがいいと思うのは、自分の規準と相手の規準は、必ずしも同じではない、ということを忘れないことです。

これを忘れてしまうと、こういった規準を絶対的なものとして、相手に押し付けたり、自分を責めたりしてしまいます。


相手が自分の規準からずれた反応を示すと、「やっぱり愛していないんだ」「なんて生意気な子!」「ちゃんと教えてあげなくちゃ」…といったストレスが生まれます。

その場合は、相手の規準と自分の規準がそもそも一致しているのか、というところから、考え直さなければならないですし、仮に一致していないとしたら、相手の規準は相手のものとして、侵食しないという選択も考えたほうがいいかもしれません。


また、ある規準に自分が当てはまっていない場合、「自分は世間一般の基準からずれている」「人よりも劣っている」などと焦ったり、不安になったりすることがあります。

その場合は、その規準が本当に自分の規準なのか、よく確かめてみることです。誰かに言われたことを、いつの間にか、自分の価値基準のように思い込んでいたりしませんか?どこかの誰かのぼんやりとしたイメージとしての規準だったら、もう一度よく、自分がどうなれば幸せなのか、自分の規準を作り直すのもひとつの方法です。
たとえば今、世間一般の基準とずれていたとして、本当に、現実的に、「楽しむ」ことは不可能でしょうか?逆に得していることはないでしょうか?

それでもやはり、自分は今のままでいてはいけない、と心から感じるのであれば、そうなるための努力をすることです。頭で考えるだけでなく、行動も伴いながら。


また、価値基準の合わない相手と交渉するスキルを身につける、というのも役に立つ努力だと思います。


私自身も年齢や経験とともに、自分の中での規準が変わったり、整理されたりして、少しずつ楽になってきたように思います。
規準や価値観が変わるというのは、楽になるとともに、多少寂しさを伴う場合もありますが、それも自分のものとして引き受けなければなりませんね。

このような価値観の齟齬により、人間関係や自分の人生について悩むことは、カウンセリングの世界でもよく出会います。
その方の価値観や規準を大切にしながら、ちょっとずつ楽になれるようカウンセラーとして少しでもお手伝いできれば、と日々考えています。

posted by サトウマリコ at 11:55| Comment(2) | ココロ
この記事へのコメント
「自分の規準と相手の規準は、必ずしも同じではない」って頭の中では分かっていても、実際の行動が自分の規準で相手のことを捉えがちですよね。

読んで思ったんですが、その点にまずは自分自身が気づくことって一番大事ではないでしょうか。案外その点に気づかないでいる場合も多く、ご指摘のように、こうした規準を絶対的なものと思い込んで相手に押し付けている自分がいたりしたこともありました。

今国際的コミュニケーション能力の育成ということで英語の教育に早い段階から力を入れています。でも英語が話せれば国際人というのは本当なのかと思うことが多く、本当のところご指摘のような「価値基準の合わない相手と交渉するスキル」の育成、価値基準の合わないこととちゃんと人間関係を構築する能力を培うことこそ、実は外国語を学ぶ大きな目的ではないかと最近感じます。仮にどんなに英語が堪能でも、これが分かっていないと身についた英語も使いようがありませんからね。
Posted by Hakucho at 2010年03月21日 17:43
>Hakuchoさん

コメントありがとうございます。

そうですね、「頭ではわかっていても…」ということは、今回書いたことに限らず沢山あると思います。

だから、こうして文章にするのは易しくても、実際に自分で気がついたり、行動を変えることというのは、簡単ではないし、そもそも<その気になる>に至るまでが長かったりしますよね。

いろんな違いを感じながらも、繋がっていくのが人間関係なのかもしれないなあ、と思います。
Posted by サトウ at 2010年03月24日 15:00
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