2009年10月29日

The Giving Tree

CIMG3043.JPG

先日ふじの原木のことを書きました。
そのことで、コメントをいただいたり、何人かの方とメールや直接お話をしました。

そして、コメント欄にも書いた、私のどこかに影響を与えたと思われる「The Giving Tree」という絵本を先日読み返してみました。

これは、アメリカシカゴ生まれの、イラストレーターでもあるシェル・シルヴァスタインという作家の絵本です。この作家は他に「ぼくを探しに」という絵本でも有名な方です。

「The Giving Tree」、日本語版は「おおきな木」というタイトルで出版されています。



簡単にあらすじをお話しますと、ここにでてくる「おおきな木」というのはリンゴの木です。

このリンゴの木には、大好きな男の子がいます。もちろんその小さなぼうやもこの木が大好きで、毎日木のところにやってきて、遊んでいきます。

男の子は、木から落ちてくる葉っぱを拾い集め、王冠を作って王様ごっこをしたり、太い幹をつたって、木の枝につかまってブランコをしたり、リンゴの実を食べたり。。

そんな毎日を過ごす木は、とても幸せです。

描かれているのは植物のはずなのに、木と男の子の戯れる様子がとても自然に描かれているイラストがとても素敵で、その様子はまるで人間の親子が触れ合っているようにも見えます。

しかし、やがて男の子は少年から成人へと成長していき、木を訪れる日はどんどん減っていきます。

そしていつしか、たまに顔を見せた彼をみて喜んだ木が「遊んでいきなさい、私に登って、枝でぶらんこをして、私の実を食べて・・・」と語りかけると、「ぼくは木登りをして遊ぶにはもう大きくなりすぎたんだよ。それより、もっと楽しい遊びをするために、お金がほしいんだ」といいます。
木は、お金は無いけれど代わりに自分の実を持っていって換金するように伝え、少年は全ての実を持っていってしまいます。

<少年(訪れるたびに、青年になり、中年になり、歳をとっていく)>はこのようにして、何度か木の前に現れると、枝も、そして幹さえも持っていってしまい、最後には、木は「切り株」だけになってしまいます。



文中、木が少年に自分の「身」を与えるたびに、こう説明されます。

 And the tree was happy

けれど、とうとう切り株になってしまった時だけは、この文がつけ加えられます。

 but not really.



英文での本文中、木のことを三人称で表すとき「she」「her」などと、女性として表現しています。

この本は、一面では母親の子供に対する愛情について問題提起をしているようにも思えます。
もっと広げて考えると、親子に対する愛とは限らず、他人に対する愛の表現のしかたと考えてもいいかもしれません。

この本から「無償の愛」を感じる人がいるかもしれません。
あるいは「与えつづけることが人を育てるとは限らない」と思う人がいるかもしれません。

作者なりの主題の意図があったとしても、もとから考えさせることが意図だっとしても、本となってしまえば一人歩きしてしまいます。ですがきっとこれを読んだ多くの人は「愛って何?」というようなことを考えるのではないでしょうか。



ここからは、私個人の感想です。

この本は、まるで定点観測のように、木のいる場所から逸れることがありません。

木が少年を待つ間、少年は、どこでどのような経験をしているかわかりません。
時折現れる少年が、疲れた様子だったり、狡猾さを身につけていたりすることから、少年の人生を想像するのみです。



ここから、私は「見えない愛」の存在について考えます。

人生の中で、どんな人でも、自分にとってかけがえのない人、たとえいっときだとしても大事だと思える人とめぐり合うことがあると思います。

最初に出会うのが母親。
それから、自分にとって大事な人というのは、家族であったり、友人であったり、恋愛の相手であったり、師であったり、いろんな人との出会いがあると思います。

そして、どんな相手だとしても、一緒に過ごす時間の長さは決まっていません。

出会うことは確かなのですが、夫婦の離婚や死別で会えなくなる親子もいれば、卒業と共に別の道を歩む友人、恋愛や結婚を通してお互いを高めあい、事情があってやがて離れていく相手…。

また、一緒に暮らしていたとしても、昼はまるきり別行動のすれ違い生活で、相手が何を考えているかもわからない、という場合もあります。

それでも、自分の心の中に相手の存在が繋ぎとめられている、それは一体なんの力だろう、と私は思います。
わからないけれど、時間というものを飛び越えてなお廃れない強い愛がそこにはあるのだと思います。

もしそれが、愛ではなく別の何か、憎しみだったり、悲しみだったりしたとしても、その存在が心の中にある限り、<縁>といえるような何かがあるのではないでしょうか。

それから、もうひとつは、「見返りを求めない愛」について考えます。

私はこんなにしているのに、どうしてあなたはしてくれないの、というのは、恋愛でも夫婦でも友達でも、起こりうるコミュニケーションのパターンです。

それとは別に、とにかく無条件で相手にしてあげたい、という気持ちになることもあると思います。
それは無償の愛、ということになるのでしょうか。
でも、ただひとつ、どんな形であれ、相手にとって自分という存在がちゃんと認められているんだという感覚がほしい。
あるいは、二人の絆を表す象徴的な何かがほしい。たとえ、目に見えるものではなくても。

それだけは、見返りとして求めてもいいのではないでしょうか。

木は、少年から何も「与えて」もらっていないようにも見えますが、絵本のラストでは、そのことについて触れているように思います。



かなり長くなりました。
誰の心の中にもある、<愛>の欲求について、何か考えるきっかけになればと思います。
posted by サトウマリコ at 12:36| Comment(2) |
この記事へのコメント
このお話確か今の中学校の英語の教科書にも
出ていたような記憶があり、聞いたことがありました。

とかく私たちって、何かにつけて見返りを
期待する思考法に慣れ親しんでいるんですよね。
でも親子とか教師と生徒のようにいうなれば
無償の愛って、本当に難しいところって
ありますよね。

おっしゃるように
私はこんなにしているのに
どうしてあなたはしてくれないのみたいに。

昔柄谷行人の『探求T』や『探求U』という
本を読んだことがありましたが、同じような
話が書かれていたのを覚えています。
すごく共感したものでした。

今こうした無償の愛が欠けている時代に
感じるのは私一人でしょうかね?
Posted by Hakucho at 2009年11月18日 23:11
hakuchoさん、こんにちは。

>でも親子とか教師と生徒のようにいうなれば
無償の愛って、本当に難しいところってありますよね。

難しいと思います。
人間ですから、代償がほしいと思うのは自然だと思うのですが、親子や教師と生徒の場合、どんな形でそれが示されるのかがわかりにくいですし、本当は代償(教育の成果とか感謝とか愛情とか)があるのかもしれないけれど、時間や物理的・心理的な距離感によって、ご本人は永遠に知ることができないものかもしれないですし。

そのことをわかっていても、自然に相手に向き合うのが無償の愛といえるのでしょうか。。

今の「時代」はどうでしょうね。
哀しいニュースばかりが目につきます。
そんなことばかりではないと思いたいです。
Posted by サトウ at 2009年11月20日 19:45
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