ご無沙汰しております。
セラフィでの心理カウンセリングの活動を休止してから、約3年半が過ぎました。
以前、カウンセリングを受けてくださった方、ブログを読んでくださった方、いかがお過ごしでしょうか。
休業中も、皆さまのことを時折思い浮かべ、どのようにお過ごしだろうと想像を膨らますことも多くありました。
私事になりますが、私は前回の「ご挨拶」の時点で、介護という初めての体験をし始めたところで、「自分の心の余裕を持つ生活は難しい」と悟り、まずは自分の生活や気持ちと向き合う時間を頂戴することにしました。
前回は、詳しく書かなかったのですが、「家族の介護」というのは、実母が認知症になり身の回りのことを自身で行うことが危うくなったため、通いでの介護が始まりでした。
まだ進行していないとはいえ、自分が認知症(もしくは何となく調子がよくない)という自覚がほとんどない中で、母を連れ出し、昼食や買い物、しもやけの酷い傷の毎日の手当…そんな日々が半年ほど続きましたが、それだけでもここには書ききれないほどの思いが去来しました。
長くなってしまって恐縮なのですが、もう少しその先の出来事を書かせていただきたいと思います。
その頃、一番辛かったのは、未来が描けなかったことだと思います。
担当のケアマネージャーさんはいらっしゃいましたが、今ひとつ家族の意思が伝わらず、自分はこのまま10年後も同じ暮らしをしているのだろうか?と思うと、どうしても希望が持てないのです。
母と二人きりで街の中をさまようけれど、社会的な繋がりが持てない、孤独を感じる日々でした。
そして、子育てならば、どんどん成長していく喜びがあるのでしょうが、目の前の母はどんどん子供に戻っていくようでした。
光が差したのは、初めて数時間、デイサービスに参加した時です。
認知症専門の施設長さんが、何度か母を訪問し、友人という体で「今度うちの昼食会に来て」と誘ってくださって、やっとのことで母を公的な場所に連れ出すことができたのです。
それまで手続きを進めようとしても、母は全く乗り気ではなく、支援の手と繋がることが一番の課題でした。
結果的に短期間の利用でしたし、結局最後まで一日中滞在することもできなかったのですが、介護のプロ…認知症を理解し、接し方にあらゆる気づかいをしてくださるスタッフさんの助けを借りて、デイサービスの中で、他の利用者さんと一緒に懐かしい歌を歌っている母を見た時には、涙が出そうになりました。
やっと、(今の)母という人を自分以外の人が知ってくれる、「それだけ」のことかもしれませが、一緒に母のことを考えてくれる人がいるということがどれだけ心強く感じたか、感謝してもしきれません。
その後、ご縁をいただいて、まもなく母にはグループホームに入居してもらいました。
「施設に預ける」ことへの抵抗感もありましたが、社会性が持続する中で暮らすことも、母のためになるような気持ちもありました。
そして、住んでいるところが変わっただけでこれまで通り家族なのだからと、できるだけ足を運び、散歩にも連れだしたりしていました。
入居して1カ月半経った頃、私は母を通院させ、おやつを食べようと寄った公園で、骨折させてしまいました。おやつを食べ終わって外の水道で手を洗ったあと、よろけて転んでしまったのです。
スローモーションを見ているようなあの光景は忘れることができません。
ちょっと尻もちをついただけ…それで、母は泣き叫ぶくらい痛がりその日のうちに大腿骨骨頭骨折で入院することとなりました。
ここまででも、自分の無知さが本当に悔やまれます。全てにおいて手探りで、知識不足でした。
けれど、その先のことも未知の世界でした。1カ月半の入院生活でしたが、認知症の母が入院するということがどれだけ病院の看護師さんに負担をかけるかということを知らなかったのです。
自分が骨折をしたこと、手術をしたこと、その記憶すら保持できなくなっていた母は、普通の人のように動こうとし、夜中に何度もベッドから出ようとします(主にお手洗い)。二度目の骨折など起こさないように、看護師さんはセンサーマットを使い、症状のせいか睡眠時間が短い母を車いすに乗せてナースステーションに滞在させ、とにかく一時も目が離せない状態になりました。特に夜勤は人が少ないらしく、大変だったと思います。
私は、病院の人員のことなども知りませんでしたし、入院したからにはプロが見てくれるという気持ちがありましたが、看護師さんの負担は生易しいものではなかったのだと思います。
看護師さん、精神保健福祉士さんと打合せをしながら、私もできるだけの付き添いはしましたが、夜間の泊りだけは自分の生活上無理でした。
そして、必要に迫られたのだと思いますが、ある時夕食時の付き添い後、看護師さんに食後の薬を渡されて気がついたのです。母は5種類もの向精神薬を飲んでいました。
それで夜に眠ってくれたらよかったのでしょうが、結局眠らず、鎮静作用に抗いながら歯を磨いたり意思を貫こうと動こうとする母。他にも副作用のほうが多く出ているように感じました。
退院一週間前には、私からお願いして、「医療の手が届かなくなったところで、薬の離脱作用がでたら困るから」と伝えてお薬を抜いてもらいました。時間はかかりましたが、はっきりと薬が抜けたということがわかるような表情、行動の変化があり、ほっとしました。
退院後、もとの施設に戻ることになったのですが、施設の方には何度も「スタッフが気をつけていても、また転んでしまうことがあるかもしれません」と念を押されました。
その時、私は決心したのです。今度また入院することがあったら(向精神薬を飲まなくてもすむように)、できるだけ長い間付き添いをしようと。お薬を飲んで鎮静させることは、現実としてあるのだと思います。ただやはり見ている家族としては辛いものがあります。
その後、施設で落ち着いて暮らすようになりましたが、「何かあった時のために」いつでも動けるような体制をとっておこう、という役割を家族の中で私が担うことにしました。
それが、休業期間が長引いた一つの理由です。
ちなみに施設には足しげく通って、母の居室で過ごすことも多かったのですが、冬にはインフルエンザ、そしてコロナ禍に突入し、通院以外の面会は極端に減りました。
それでも私はこの3年間、「もしも」のために、仕事は週一回の業務委託相談のみに絞ったまま過ごしました。
正直、時間があったので、その間に資格試験の勉強をし、一つは受かり、もう一つはまだ道半ばといったところです。
私的なことは、あまり皆さんに必要な情報ではないと思い、これまであまり書くことがなかったと思いますが、今回は、自分の言葉で私の状況を知っていただきたく、長々書かせていただきました。
次に、仕事に関することを書きます。